庶民と思われる人が実は貴人の子であったという「御落胤」の伝説は,歴史のミステリーとして興味深い。ただ,今となっては真偽を確かめようがないので,通説として取り上げられることは少ない。
名古屋市中村区中村町木下屋敷にある太閤山常泉寺は,豊臣秀吉の生誕地として知られる。この寺のホームページでは,秀吉の誕生を次のように伝えている。
太閤の御母堂天瑞院殿(大政所)は藤原保通の娘です。保通は朝廷に仕えて後柏原天皇の重鎮でしたが、永正10年秋(天瑞院殿2歳)に失脚し、中村に隠居させられて、後年赦し得て京都に還り、旧宮に復帰します。天瑞院殿は容姿端麗な娘に成長しました。そして後奈良天皇に寵愛され御懐妊しました、宮中の姫これを妬み危害を受ける恐れある為に、名古屋に逃れ筑阿彌の宅に寄居する.天文5年元旦に一男子を産む、是即ち、豊太閤であります。後に筑阿彌の妻になり秀長と二女を儲ける。筑阿彌の名は昌吉で、始め織田信長に仕えて後に、剃髪し出家します。筑阿彌は其の法名です。
ここでは通説の弥右衛門は登場しない。秀吉が百姓や足軽の出ではなく皇胤だとするならば,身分の重みがあった時代に位人臣を極めた出世の謎に説明がつく。
ここ常泉寺に秀吉の「御手植の柊」がある。
このヒイラギは彼が11歳の時に植えたもので,後年,小田原攻めの帰りにこの地に立ち寄り繁茂しているのを見て「柊は鬼神も恐れる吉祥の樹なり。大切に致すべし。」と手づから竹を立ち添えたそうだ。史実か伝説か判然としないところに歴史のおもしろさはある。
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