軍記物はおもしろい。単なる記録ではなく,語って聞かせることを前提としているので,波瀾万丈の展開に構成されている。それゆえ,どこまでが史実なのか訝しげな部分も多い。
香川県小豆郡小豆島町中山に,環境省の名水百選に選定されている「湯舟の水」が湧く。写真の水汲み場は,小豆島霊場第44番「湯舟山」の境内。ここは,『太平記』に登場する南朝武将,飽浦信胤(あくらのぶたね)ゆかりの地でもある。
そこに掲げられている「湯舟山縁起」を読んでみよう。意訳である。
小豆島の西の湯舟山というところは,暦応のころ,佐々木薩摩守信胤が開基して祈願所としたと言い伝わるばかりで,証拠になるものなどはない。しかし,千手の仏像がある。崩れた熊野権現の宮がある。滝のほとりに飽浦の宮というのも,そこに残る。
私がつらつら,その信胤の心を考えてみるに,先祖の佐々木三郎盛綱が,去る寿永の乱に備前の藤戸の海を馬で先駆けして,勧賞として児島の主となり,信胤まで180年になる。暦応の戦乱で南朝方につき,飽浦三郎左衛門として小豆島に城郭を構え,西国の往還を確保したことは太平記に書いてある。
その身は乱世に生まれて少しも心の休む間もなく,後世の武名を恥じて,朝夕の営みにはただ軍の安否を思い,飽浦の城にある時は政治に専念してそこを治め,小豆島に渡っては草加部の館に住んで星ヶ城にのぼり吉凶の時を考え,四方を見張らせ勝負をはかり,南で戦うときには北を安定させるなど計略をめぐらし,湯舟山に絶えず湧く水を結んで軍士の渇きを救い,千手の仏像を安置して現世を祈り,熊野本宮証誠殿の本地である阿弥陀仏を勧請して後世をたのみ,この滝を閼伽(あか=仏前に供える水)に奉って現当二世を厚くしたということだ。まことに文武兼備の勇士というべきである。
飽浦は岡山市内の地名だが,信胤は,本貫地のある岡山よりも,小豆島において広く慕われている。『佐々木信胤物語』という冊子まで作成されているほどだ。島の各地に残る伝説が収録されており,読み物として楽しめると同時に史跡めぐりに出かけたくなる。それが史実かどうかは分からないにしても,信胤を慕う人々の気持ちがあったことは確かなのだ。