門柱に表札がついている。「首塚さんのおうちか…」 いや,そうではない。ここは慰霊の場所なのだ。
浜松市北区細江町気賀に「堀川城趾」の石碑があり,その傍らに「首塚」はある。
周辺は水田で特に高台に位置するわけではない。それでもここに城が築かれたのは,浜名湖の湖水がここまで入っていたからだ。天然の堀を持つ水城であった。事実,永禄十一年に徳川家康が攻め入ってきた際には,折からの満潮のために落城させることができなかった。
堀川城に立て籠もっていたのは,今川氏につく地侍と領民だった。家康は,翌,永禄十二年三月の再度の戦いで,城を陥落させる。この時,城兵五百余名を殺し,さらに近隣の住民七百余名も捕えて斬首した。
堀川城攻めにおけるこの大量殺戮は,徳川方の『三河物語』においてさえ「男女共になで切りにぞしたりける」と記録している。「なで切り」は信長,秀吉だけではない。そのような時代だったのだ。
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