歴史の上で日本に危機は何度もあったが,ペリー来航に伴う政治状況の激変は,有数の国難といえるだろう。危機的状況に際して国の進む道を誤らぬためには,人を得ることが大切である。
佐倉市新町の安城山不矜院甚大寺に「堀田正睦(ほったまさよし)墓」がある。
墓碑銘は「故佐倉城主侍従従四位下紀文明公墓」である。この堀田家墓地では初代正俊,九代正睦,十代正倫の墓が大きく,県指定史跡となっている。堀田家は代々佐倉藩の藩主であった。
正睦は安政二年(1855)十月九日,阿部正弘の後任として老中首座となった。アメリカ合衆国と和親条約を結び,次に貿易開始の可否について議論していた時期だ。総領事ハリスと交渉に当たったのも正睦である。
佐倉市には「蘭学通り商店街」があるが,これは近くに「旧佐倉順天堂」があることに由来する。佐倉順天堂は蘭医学の塾で,「蘭癖」と呼ばれるほどの開明派だった正睦がつくらせたものだ。このような正睦は貿易開始もやむをえないものと考えていたものの,朝廷の激しい抵抗に遭い勅許が得られなかった。そして安政五年(1858),井伊直弼の大老就任により正睦の時代は終わる。
力量不足だったのではない。諸大名の意見に耳を傾け,反対派には粘り強い説得により理解を得ようとしていたのだ。後任の大老のように独断専行ではない。正睦は,この時代に必要な人材であった。
佐倉市では毎年4月に「佐倉チューリップまつり」を開催している。なぜチューリップと風車なのか,という疑問は,愚問だということに気付いた。印旛沼の干拓地にこそ,オランダの象徴はお似合いである。
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