名族の流れを汲むことは武家の誇りであり,祖先の名を汚さないことが行動規範であった。事実かどうかは別として,誇らしい系図が作成され,その内容が信じられてきた。
和泉市伯太町4丁目に「伯太營址碑」がある。
付近に「旧伯太藩武家屋敷」もある。
伯太(はかた)藩は1727年に成立した,譜代渡辺氏九代の13,500石余の知行地であった。伯太營址碑のある場所は陣屋の跡地である。石碑は昭和12年の建立で撰文は最後の藩主の子,渡辺恭綱である。
遡って先祖の渡辺守綱は家康に仕えていたものの,熱心な門徒であったため三河一向一揆に加わる。のち許されて家康の許へ帰参し獅子奮迅の活躍をする。そのため,徳川十六神将に数えられている。
さらに遡ると,渡辺綱にたどりつく。綱といえば,酒呑童子を退治した頼光四天王の一人である。本姓は源氏だが,清和源氏ではなく嵯峨源氏の源融の流れである。10世紀から11世紀にかけて活躍した綱は多分に伝説的だ。
ここは信太山丘陵地の高台で見晴らしが良い。名族の誇りを胸に善政を敷いたのだろう。小さいながらも凛とした存在の藩であった。
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