日本人は哀しい話が好きだ。そして貴種流離譚が好きだ。高貴な御方が華やかな都でその幸せな一生を終える。それは,それ以上のものではない。しかし,貴人が鄙びた土地に倒れる,とくれば,「なぜ」と問いたくなるのが人情であろう。
姫路市香寺町須加院に「親王塚」がある。
護良親王の皇子・陸良(くがなが)親王の塚だと伝わっている。後醍醐帝から見れば孫にあたる親王である。またの名を「赤松宮」という。どういうことだろうか。
南北朝史には「観応の擾乱」というややこしい争いがある。この中で,足利直義と赤松則祐が南朝に帰順した。播磨において直義は金剛城を,則祐は陸良親王を奉じて弥高山城を本拠とした。直義のライバルで北朝方の高師直が金剛城を攻めるのを見た則祐は,親王とともに直義の救援に向かう。
その途中,幼い親王は不幸にも病気に罹り薨去されてしまった。そして築かれたのが「親王塚」であるという。鄙びた土地こそ南朝の史跡に相応しい。
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