幕末の三大義挙とは,生野の変,天誅組の変,天狗党の乱である。いずれも尊王攘夷の旗印の下で起こされた出来事で,明治維新の先駆けをなすものとして評価されている。さらに遡って,桜田門外の変でさえも義挙と呼ばれることがある。
岡山市東区沼に「津下家之跡」の碑が建てられている。
すぐ前を山陽本線,後は山陽新幹線が走る東西の動脈に位置する。ここは森鴎外の作品「津下四郎左衛門」ゆかりの地である。
私の家は代々備前国上道郡浮田村の里正を勤めてゐた。浮田村は古く沼村と云つた所で、宇喜多直家の城址がある。其城壕のまだ残つてゐる士地に、津下氏は住んでゐた。岡山からは東へ三里ぱかりで、何一つ人の目を惹くものもない田舎である。
私というのは,津下四郎左衛門の子である。子は父が行った事は何だったのか悩み考え,そしてそれを鴎外に告白した。津下四郎左衛門は横井小楠暗殺事件の首謀者であった。
四郎左衛門が意外の抗抵に逢つて怒を発し、勢鋭く打ち込む刀に、横井は遂に短刀を打ち落された。四郎左衛門は素早く附け入つて、横井を押し伏せ、髷を掴んで首を斬つた。四郎左衛門は「引上げ」と一声叫んで、左手に横井の首を提げて駆け出した。寺町通の町人や往来の人は、打ち合ふ一群を恐る恐る取り巻いて見てゐたが、四郎左衛門が血刀と生首とを持つて来るのを見て、ざつと道を開いた。
造反有理,愛国無罪という言葉がある。同じように力によって言論を封じても,破壊活動を行っても,あるいは人の命までも奪っても,「義挙」と呼ばれることがある。憎むべきテロと賞賛される義挙はどう違うのか。
父は人を殺した。それは悪事である。しかし其の殺された人が悪人であつたら、又末代まで悪人と認められる人であつたら、殺したのが当然の事になるだらう。生憎其の殺された人は悪人ではなかつた。今から顧みて、それを悪人だといふ人は無い。そんなら父は善人を殺したのか。否、父は自ら認めて悪人となした人を殺したのである。それは父が一人さう認めたのでは無い。当時の世間が一般に悪人だと認めたのだといつても好い。善悪の標準は時と所とに従つて変化する。当時の父は当時の悪人を殺したのだ。其父がなぜ刑死しなくてはならなかつたか。其父の妻子がなぜ日蔭ものにならなくてはならぬか。
私の父は善人である。気節を重んじた人である。勤王家である。愛国者である。生命財産より貴きものを有してゐた人である。理想家である。
私はかう信ずると共に、聊自ら慰めた。然しながら其反面に於いて、私は父が時勢を洞察することの出來ぬ昧者であつた、愚であつたと云ふことをも認めずにはゐられない。父の天分の不足を惜み、父を啓発してくれる人のなかつたのを歎かずにはゐられない。これが私の断案である。
歴史の評価は時勢によって変化する。今の目で見ることが正しいのか,当時の人々の一般的な見方を重んずべきなのか。津下四郎左衛門の子の悩みは,歴史上の出来事に学ぼうとする現代人の悩みでもある。歴史上の人物にしろ,現代を生きる私たちにしろ,人に評価は付き物であるが,人生を善や悪の一言で決めてほしくはない。
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