史跡の中でも古戦場は想像力を必要とする。なぜ、この場が決戦場となったのか。兵はどの方向から激突したのか。そして、それはTVドラマの合戦シーンと同じなのか。
玉野市八浜町八浜の両児山公園に「八濱城址」と刻まれた石碑がある。一般には両児山城と呼ばれている。
公園のある南郭は横堀(写真)と畝状竪堀が発達した技巧的な構えだ。神社のある北郭にも畝状竪堀(写真)がある。生死の懸かった合戦など無縁の風景が広がる。
天正九年(1581)、毛利と宇喜多の決戦が児島北岸で行われようとしていた。本日の八濱城はどちらの軍勢に関係するのだろうか。土肥経平の軍記物『備前軍記』巻第五「児島八浜合戦幷七本槍の事」を読んでみよう。
毛利三家評定ありて穂田伊予守元清を大将として、有地美作守・古志清左衛門・村上八郎右衛門・植木出雲守・同下総守・同孫左衛門・福井孫六左衛門・津々加賀守等を児島へ渡し、蜂濱(八浜)より西、四十町計に陣取、麦飯山を築て砦として、先達て児島を取敷治めんと謀ける。此毛利勢に出ける事を、常山より岡山へ注進あれば、宇喜多勢与太郎基家を大将として、富川平右衛門・岡平内其外諸大勢渡海して八濱の此方に陣を取りて、両陣より足軽共出て迫合ありけるに、八月二十二日(一に曰廿四日)の朝岡山勢より麦飯山の城近く馬の草刈に出にける。敵少々出て其草刈を追ふ。味方の若者五六輩馳行て草刈を助く。敵より又十人計出て渡り合、味方も是を見て、又二十人計馳出、それより双方段々に出重り、大勢になりて大崎村の柳畑といふ海辺にて戦ふ。(注)今も其古戦場の白骨・剣類ほり出すことありといへり。一曰、宮の森といふ所なりと。
毛利勢が元就の四男である穂田元清を大将として麦飯山城に陣取ったのに対し、宇喜多勢は直家の甥である基家を大将として八濱城に陣取った。毛利勢の進出について常山城から岡山城へ注進があったというが、常山城に宇喜多の重臣戸川氏が入るのは、もう少し後のことである。
玉野市八浜町大崎に「柳畑古戦場」がある。
現在は北方に広大な干拓地が広がり狭さは感じられないが、当時は山と海に挟まれた隘路であった。古戦場は干拓地より一段高い平地にあり、戦死者の霊を慰める供養塔が残る。ここは備前児島の覇権をかけた毛利と宇喜多(その背後の織田)の決戦場だった。
戦いの時期を『備前軍記』は天正九年としているが、一次史料(毛利側に伝えられた穂田元清書状)によれば、天正十年(1582)2月の出来事である。戦況は毛利方優勢のうちに進んだようだが、まだ決着したわけではない。