水戸黄門の面白さは,御隠居が実は天下の副将軍だったというギャップにある。では,宴の明かりを焚く下僕が皇子だったら…。『播磨国風土記』が語る貴種流離譚である。
三木市志染町御坂に「志染(しじみ)の石室(いわむろ)」がある。ここは日本書紀にも「播磨国縮見山石室」として登場する古代からの聖域である。
『播磨国風土記』を読んでみよう。「志深の里」の項である。
於奚・袁奚の天皇等,この土にいまししゆゑは,汝父,市辺の天皇命,近江の摧綿野に殺さえたまひし時,日下部連意美を率て逃れ来て,この村の石室に隠りたまひき。
ここに,二人の子等,彼此に隠り,東西に迷ひ,よりて,志深の村の首,伊等尾の家に役はえたまひき。伊等尾が新室の宴によりて,二人の子等に燭さしめ,よりて詠辞を挙げしめき。ここに,兄弟各相譲き。すなわち弟立ちて詠めたまひき。
その辞にいひしく,「淡海は,水渟る国,倭は青垣,青垣の,山投にましし,市辺の天皇の,御足末,奴津らま」と。すなわち諸人等,皆畏み走り出でき。
まさに水戸黄門お約束のシーンを見ているようだ。二人は都に戻り,弟が先に即位し顕宗天皇となり,その後を兄が継いで仁賢天皇となった。
石室には水がたまっている。この水は12月下旬~3月初旬に金色になることがあるそうだ。ヒカリモの作用によるもので「窟屋の金水」として知られている。この写真でも金色っぽく見えるが,一面が金に染まるのが「金水」である。そして,壁は礫岩でできている。今から3500万年前に古神戸湖に堆積して形成された神戸層群の一部である。
現在は土砂や水が溜まってしまったが,かつての石室はどのくらいの広さだったのだろう。実に,文系も理系も楽しめる奥の深い史跡だ。
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