「いかに静,このたび思はずも落人となり落ちくだるところに,これまではるばる来りたるこころざし,かへすがへすも神妙なり。さりながら,はるばるの波濤をしのぎくだらん事しかるべからず。まづこのたびは都にのぼり時節を待ちさふらへ」
(ああ静よ,このたび思いもよらず落人となって都を下ることとなったが,これまではるばるついて来てくれたその気持ちは,なんともけなげなことだ。しかし,この先,はるばる激しい波をしのいで落ちていくことは無理だ。とりあえず,このたびは都に帰って時が来るまで待っていてくれぬか)
「わらわは君の御別れ。やる方なさにかきくれて。涙にむせぶばかりなり」
(私は義経様とのお別れにやるせない気持ちがいっぱいで,涙にむせぶばかりでございます)
尼崎市東本町一丁目の辰巳八幡神社の境内に「傳静なごりの橋」の石柱がある。「昭和大典記念」とも刻まれているが,年代の割にはずいぶん傷んでいる。
冒頭に紹介したように,謡曲『船弁慶』によれば,摂州大物からの船出の際に義経と静御前が別れたという。この橋のたもとで静は名残を惜しんだのであろう。しかし,どこに橋があるのか。高速道路ばかりが目に付くのだが。
尼崎市大物町一丁目に「着船橋こども広場」がある。この広場を含んで緑地が細長く続いている。途中でカーブしているのでどうも計画的につくられたものではない。着船橋というが橋はどこにもない。
地図を見るとよく分かるが,これは川の跡だ。ここには大物川があったのだが,戦後に地盤沈下の影響で流れがなくなりゴミが溜まって困ったそうだ。そこで昭和40年代に埋立てられて公園化された。
先に紹介した「傳静なごりの橋」の石柱は,かつてこの近くに建てられていたらしい。おそらく,義経一行が船出したのもこの辺りだったのだろう。
しかし『吾妻鏡』によると,静御前は義経とともに船出して,吉野山中に至って別れたとされている。なぜ,船出前に大物で別れねばならないのか。
謡曲『船弁慶』では,前半で義経と別れゆく静御前の切なさを情感豊かに描き,後半で平家の怨霊と戦う弁慶を荒々しく表現する。静から動,この劇構成に欠かせない要素を一作品中に取り入れるならば,静御前にはここ大物で別れてもらわねばならなかったのだ。