勢いのあるうちに選挙を,とは現代の政治家が言っていることだが,確かに調子のよい時には結果もついてくる。逆もまた然りで,まさに泣きっ面に蜂,下り坂を転がる石のように落ちていく。源義経の人生はそのようなものだ。非凡だからドラマになるのだ。屋島の平家を奇襲するため難波渡部津から阿波へ渡った時には嵐が味方してくれた。しかし…
尼崎市大物町二丁目の大物主神社に「義經辨慶隠家跡」がある。
時は元暦2年(1185年=文治元年),春に平家を滅亡させた義経だが,空気の読めないことが災いして兄頼朝との溝は深まる一方だった。誠を尽くしても汲んでもらえない,さらには刺客まで送られる。ついに義経は逆ギレした。頼朝追討の院宣を手に入れ,西海を拠点として対抗しようとする。11月3日早朝に京都を発ち,5日に大物浦で乗船し明朝船出したものの…。案内板を読んでみよう。
古典「平家物語」には頼朝と不和になった源義経が武蔵坊弁慶ら郎党と共に西国へ向うため大物浦(尼崎市)から船出したものの、烈しい風浪のため押し戻されたことが書かれ、これは謠曲「船弁慶」に脚色されているが、そのとき一時身をひそめたところが、この社付近だと伝える。
その『平家物語』の「判官都落」を読んでみよう。
大物の浦より舟に乗つて下られけるが、折節西の風烈しく吹き、住吉の浦へ打ち上げられて、吉野の奥にぞ籠りける。
義経の船は住吉浦に打ち上げられたという。
また,史料性の高い『玉葉』(文治元年十一月八日条)では,次のように記されている。
伝聞、義経、行家等、去五日夜乗船、宿大物辺、追行之武士等、寄宿近辺在家
未合戦之間、自夜半大風吹来、九郎等所乗之船、併存亡、一緩而無全、船過半入海、其中、義経行家等、乗小船一艘、指和泉浦逃去了伝聞、義経・行家等、去る五日夜乗船、大物辺に宿す。追行の武士等、近辺の在家に寄宿す。
未だ合戦せざるの間、夜半より大風吹き来たり。九郎等乗る所の船、併しながら損亡す。一艘として全く無し。船過半海に入る。その中、義経・行家等、小船一艘に乗り、和泉浦を指し逃げ去りをはんぬと。
義経らは小船一艘に乗り和泉浦を目指して逃げたともいう。
さらに『吾妻鏡』(文治元年十一月六日条)では,次のように記されている。
行家義経、於大物浜乗船之刻、疾風俄起而逆浪覆船之間、慮外止渡海之儀伴類分散、相従予州之輩齎四人、所謂伊豆右衛門尉、堀弥太郎、武蔵房弁慶並妾字静一人也。今夜一宿于天王寺辺、自此所逐電云々。
行家・義経、大物浜に於いて乗船するの刻、疾風俄に起こって逆浪船を覆すの間、慮外に渡海の儀を止む。伴類分散し、豫州に相従うの輩纔に四人。所謂伊豆右衛門の尉・堀の彌太郎・武蔵房弁慶並びに妾女(字静)一人なり。今夜天王寺の辺に一宿し、この所より逐電すと。
義経一行は天王寺に泊まってから逃げている。
船出後の経路は様々に伝えられいる。『船弁慶』では暴風浪は平知盛の怨霊とされ,義経が歴史の表舞台から追われたのは平家の復讐だという。この時の怨霊は弁慶によって鎮められるものの,義経の安住の地はこの先どこにも見つからなかった。大物からの船出は,終わりの始まりだったのだ。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。