人が歴史に求めるものは、史実ではなくロマンである。その代表例が「源義経」で英雄不死伝説へ発展していくのだが、それは平家の武将にも見ることができる。『平家物語』のヒーロー、ヒロインが山里を歴史の舞台へ引き上げてくれている。
福山市沼隈町大字中山南の通盛神社(平家乃宮〉に「通盛主従の墓」がある。平通盛は清盛の甥に当たる武将だ。平家の数少ない勝ち戦である水島の戦いの将である。
なぜ平通盛なのか。沼隈町誌編さん委員会『沼隈町のくらしと伝承』は次のように記す。
平家谷(中山南、横倉)は、一ノ谷・屋島の合戦に敗れた平通盛の主従が、逃れてこの谷に分け入り、ここで密かに暮らしたという。
一方、通説となっている『平家物語』の記述も確認しておこう。巻第九「落足(おちあし)」である。場面は一ノ谷の合戦後の様子だ。享年32歳という。
越前の三位通盛卿は、山の手の大将軍にておはしけるが、その日の装束には、赤地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧着、白葦毛なる馬に、白覆輪の鞍置いて、乗り給ひたりけるが、内甲を射させ、大勢におしへだてられて、弟能登守にはなれ給ひぬ。心静かに自害せんとて、東に向かつて落ちゆき給ふ所に、近江国の住人、佐佐木の木村の三郎成綱、武蔵国の住人、玉井四郎資景、かれこれ七騎が中に取り籠めて、遂に討ち奉る。その時までは、侍一人付き奉りけれども、それも最期の時は落ち合はず。
福山市沼隈町大字中山南の福泉坊に「小宰相の局の墓」がある。ここは、しだれ桜が有名な美しいお寺だ。
平通盛の妻、小宰相は、夫の死を聞いて後を追って入水する。その模様は、先に引用した「落足」の次の段「小宰相身投」に描かれ、平家の滅びの美学を伝える一場面となっている。ここ平家谷の小宰相はどのような生涯だったのだろう。通盛だけを生き永らえさせるわけにはいかなかった里人の思いが、この墓には込められているのだろう。
通盛神社の奥の花しょうぶ園に「黒血山(くろちやま)」がある。
解説板を読んでみよう。
平氏の武将が、この谷にわけ入ってふと見ると、足に蛭が吸付いていた。「そこで、我今落人となりぬれば、汝ごときまであなどるや……」と腰の太刃を抜き蛭を切りうち捨てた。
その時蛭が黒い血を流したことに故んで、この山あたりを「黒血山」と呼ぶようになったらしい。
以来平家谷の蛭は、再び血を吸うことはないといわれている。
1989年6月 横倉地区〈平家谷〉
武士の意地と誇り、そして、美しい妻が夫に寄せる想い。里人はそれを楽しみ、そして自らを重ね合わせて暮らしてきた。史跡を表示する赤色と通盛と小宰相のロマンが、緑に覆われたこの谷を一層美しく見せている。
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