地上の楽園、そう聞くと宣伝文句としか思えない。自分が実感したのなら楽園でも天国でもよいのだが、人にはなかなか伝わらない言葉だ。しかし、私は見た。これを極楽と言わずして何と言おう。平等院鳳凰堂である。
宇治市宇治蓮華に「平等院鳳凰堂」がある。今日は10円玉の図案であまりにも知られた史跡で恐縮だ。
藤原頼通が1053年に鳳凰堂を建立した背景には、浄土信仰の盛行があった。なにせ1052年問題、末法元年を迎えて揺れる日本なのだ。ここは阿弥陀仏のお力にすがるより他に術があろうか。
そのような教科書的な予備知識があるから、この建物が浄土を具現しているように見えるのだろうか。同時代人にはどのように見えていたのか。保延年間(1135~41)の三善為康『後拾遺往生伝』巻下〈『改定史籍集覧』第19冊所収〉の一節である。
…一人子、夢見其生所云、有鐘堂以瑠璃成之、又有重々堂、七宝荘厳、五色蓮華、開敷池中、有子啓母、宇治御堂如此歟、母云、何故如此問乎、子曰、児童歌云、極楽不審久者宇治乃御寺乎礼ヘトイフ故也、母云、工巧雖尽美不可似生本云々、夢覚了
一人の子、夢に其の生所を見るに、云く「鐘堂有り、瑠璃をもって之を成す。又、重々の堂有り、七宝荘厳す。五色の蓮華、池中に開敷す」
子有り、母に啓す「宇治の御堂、此の如きか」
母の云く「何が故ぞ、此の如く問ふや」
子の曰く「児童の歌に云く『極楽不審(いぶかし)くば宇治の御寺を礼(うやま)へ』といふ故に也」
母の云く「工巧美を尽くすといえども、生本に似るべからず」云々。夢覚め了る。
子どもの歌に「極楽知りたきゃ、平等院おがめや~」とあったというから、平等院=極楽浄土=地上の楽園というイメージは当時すでに浸透していたのかもしれない。
それにしても、子の言うのに対して母の言葉が立派だ。「いくら美しく造ったって、ホンモノにはかなわないよ」 まさにそのとおり。いつの時代も母は偉大なり。
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