宮澤喜一元首相が小渕内閣の大蔵大臣に就任した時、「平成の高橋是清」と呼ばれていた。元首相が大蔵大臣に就任したのみならず、積極財政派であったことも似ている。さらには、二人とも英語を使いこなせるところがすごい。そして、共に笑顔が似合う政治家だ。
風貌に惹かれてオークションで買ってしまった。昭和26年から30年にかけて発行されたB50円券である。「五拾」というマイクロ文字が印刷されている当時のハイテク紙幣である。
小金井市桜町三丁目の江戸東京たてもの園のうち関野町ニ丁目地内に「高橋是清邸」がある。明治35年築の総栂(つが)普請の高級住宅だ。是清さんには失礼だが、この邸宅が見たくて行ったのではなく、当時の大河ドラマ『新選組!』関連の特別展「幕末の江戸と多摩」の見学が目的だった。しかし、今となっては是清邸の印象しか残っていない。そこが事件の現場だったからだ。
もとからここにあったように感じるくらい美しく整備されているが、実際には港区赤坂七丁目にあった。今その場所は「高橋是清翁記念公園」となっている。
時は昭和11年2月26日雪の朝のことである。日本を震撼させる軍事クーデターが発生する。ニ・ニ六事件である。是清邸での出来事を大島清『高橋是清』(中公新書)で読んでみよう。
その前日の二月二十五日、高橋是清はいつもより早く、午後三時ごろ大蔵大臣官邸を退出して、赤坂表町の私邸へかえった。この日はちょうど娘のみよ子が里帰りでもどってきていたので、久しぶりに家内がそろって食事でもしたいという家の者の希望であった。はじめ高橋は、「そんな私事で早退けするのは……」とむずかしい顔をしていたが、秘書官の久保文蔵が「もう今日は別に重要な用事もありませんから」と追いたてるようにして私邸へ送ったといわれる。
東京には珍しい大雪の降った、あくる二十六日のあけがた五時すぎころ、どすんどすんとものすごい音をたてて、高橋の邸の表門をこわす者があった。女中の阿部千代子がただならぬ気配を感じて、二階十畳の間にやすんでいる高橋のところへかけ上った。高橋も、なにか起こったことを直感して、白い寝まきのまま床のうえに坐っていた。そして、かけこんできた女中をみて、「なんだあれは、雪の落ちる音かね」とたちあがってみようとした。そのとたん、四列縦隊を組んで梯子段をどかどかとのぼってきた兵隊が部屋へなだれこんだ。
高橋のまなざしが、けわしくキラリとひらめき、「なにをするかッ」と大声にしかりつけるのとパンパンというピストルの発射音とがほとんど同時であった。高橋は胸から腹のあたりへかけて、七発の弾をうちこまれ、がっくりたおれてうつぶせになった。すると兵隊を引率してきた若い中尉が、いきなり軍刀をふりかぶって、たおれた高橋の右肩から胸部にかけてけさがけに切りおろした。白い寝まきはあけに染まり、あたりは泥だらけの兵隊靴でふみにじられた。
これに対し、上記の若い中尉、中橋基明の証言では状況が異なっている。池田俊彦編『ニ・ニ六事件裁判記録 蹶起将校公判廷』(原書房)から引用しよう。
午前五時頃赤坂区表町三丁目大蔵大臣高橋是清私邸に到着し先づ同邸前電車道に軽機をニ銃宛東西に配置し警察官及び憲兵の攻撃に備へました。そして初めの計画は私が同邸前に居て中島少尉が梯子を利用して塀を乗り越え内部に侵入すると云ふ計画でありましたが、実際の状況を見ますと私共の襲撃が僅かの間に終ることでありますから警官や憲兵が来て妨害する様なことなしと判断し私は表門に近付き兵四名を以て立番巡査二名を取押へさせましたが一名の巡査が表門の小門を開いて門内に逃げ込みましたので小門の開くことを知り兵を呼び引続いて小門より侵入し、中島少尉は同邸東側の塀に梯子を掛け之を以て塀を乗り越えました。私は直に内玄関の戸を破壊して屋内に入り中島少尉亦私に続き兵も約二十名屋内に入りました。
私が先頭に立って屋内に入りますと十八歳位の書生が居たので高橋蔵相の寝室に案内せよと云ひ其の男に従つて行きますと途中で何処かへ行つて仕舞ひ廊下を廻りますと元の玄関の所へ出て来たのでニ、三回廻りましたが二階に上る階段がありませんでした。今度は中島少尉が逆に廊下を廻りましたが其の時家人が廊下を右往左往して居りますので怪我でもしては不可と思ひ引込ませる為に床に向けて拳銃の威嚇射撃をしました。其の時執事が出て来まして中島少尉と何か話して居りました。私が廊下を逆に廻りますと二階に上る階段があるのを発見し其の階段を上りました。其時兵も一緒に階段を上りましたが二階には広い部屋がありましたが誰も居なかつたので次の部屋の襖を開けて見ますと十畳の間で高橋蔵相が蒲団の中に仰向いて眼を少し開けて寝て居りましたので、天誅を叫び蒲団をはね上げましたが起き上らうともせず、私は拳銃を三発高橋蔵相の腹部を目懸けて撃ちました。其処へ中島少尉が飛び込んで来て軍刀を以て高橋蔵相を斬りました。高橋蔵相は遂に即死しましたが私が初め天誅と叫んでも高橋蔵相は蒲団の中で従容として薄く眼を開き黙つて居りました。
有馬頼義『ニ・ニ六暗殺の目撃者』(恒文社)では、次のように記録されている。
裁判記録では、是清は、蒲団をはがれるまで眠っていたようになっているが、阿部千代の証言は、反対であった。信ずべき報告によれば、是清の寝室にはいったのは、中橋基明と、中島莞爾の二人だけであった。中橋はまず「天誅!」と叫んだ。それに対して高橋是清は「馬鹿者!」とどなりかえしている。高橋是清はそのとき、八十三歳の老齢であった。ずっと後のことだが、中橋は、陸軍刑務所で、自分の父親に、高橋の「馬鹿者!」にたいそうびっくりしたといったという。
具体的な場面は語り手、書き手によって異なっている。いずれにしても、高橋蔵相をはじめ重臣の惨殺が軍人の手によって行われる異常事態である。蔵相が昭和11年度予算で陸海軍の大幅な増額要求を抑え込んだことを恨んで殺害に及んだという。「諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム」そういう問題ではない。日本の先軍政治はこの後10年もたたないうちに多数の国民を巻き込んで破滅を迎えるのであった。
利七屋孫兵衛さま
いつもありがとうございます。
興味深いお話です。人はいろんな所でつながっているのですね。
重い過去と向き合いながら人生を歩まれたことに、頭の下がる思いがいたします。
投稿情報: 玉山 | 2016/02/25 23:13
時同じくして、渡辺錠太郎教育総監を銃殺した安田優陸軍少尉の弟である安田善三郎氏とは一度或る海外旅行でご一緒したことがあります。
先日もEテレ「こころの時代」と銘打った特別番組で渡辺和子先生と共に紹介されましたが、昨年7月に安田氏とは電話でも話をしました。いつか再会拝眉できる機会があればと話し合いました。
投稿情報: 利七屋孫兵衛 | 2016/02/24 23:27