室町幕府の管領を務めた畠山家の内訌はすごい。あの有名な応仁の乱を誘発し、その終結後も一向に終わる気配がなく、あの有名な山城国一揆で追い出される。そんなことでやめるわけがない。
寝屋川市成田西町の成田山大阪別院に「畠山義豊の墓」がある。
人名がたくさん登場するので整理しておこう。家督をめぐる対立の一方は畠山義就で、義就―義豊(基家とも)―義英と続く。義就と対立していたのが畠山政長で、政長―尚順―稙長と続く。
応仁の乱、そして山城国一揆が過ぎても争っていた義就と政長だが、1490年、先に義就が病死してしまう。政長は家督争いに最終決着をつけるべく、将軍義材と組んで、義就の子である義豊を攻撃する。
しかし、ここで義豊に強い味方が登場。1493年、管領の細川政元が将軍義材を追放し、政長を自刃に追い込む。これによって、義豊は畠山家の家督と河内守護職を手に入れる。ここからしばらくが義豊の絶頂期であったろう。
しかし、親の仇は子の仇で、1499年、義豊は政長の子の尚順に攻められる。軍記『応仁後記』巻中「雪敲事付畠山義豊自害事」(改定史籍集覧第3冊所収)を読んでみよう。(旧字体は新字体、カタカナはひらがな)
義豊は河内国平野の城に居給しが、其頃細川政元より加勢を受け、和州を退治すべしとて和州河州の際に於て合戦度々に及けるを、尚順其隙に多勢を率して平野の城を取巻き、息をも不継せ攻ける程に、終に此城攻落されたり。
義豊は平野城へ立還る事も不叶其まゝ敗軍して、于時明応八年正月廿七日上総介義豊終に伴抜と云所に於て自殺して失給ぬ。其子弾正忠義英は平野の城を落去て行方不知成給ぬ。
尾張守尚順は父の敵義豊を討取て本意を達するのみにあらず、紀伊大和河内三箇国の本領共を悉取還し、河州高屋に在城して再度家運を開かれける。
その後も、子の義英が尚順そしてその子の稙長と対立していく。こうして対立は延々と続き、戦国の荒波の中で畠山家自体がフェードアウトしていく。
この時代の武将の墓はなかなか現存しないが、相争った政長と義豊の墓は比較的知られている。特に、今日紹介した義豊の墓は昭和になって新たに発見され、今のように丁重に祀られたそうだ。それはそれで幸せなのかもしれない。
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