むかし、学校の近くには駄菓子屋があった。私の中学校の前には文房具やらチロルチョコやらいろいろ売っているUFOという店があり、よく行ったものだ。その店はしばらくしてなくなったが建物は残っていた。その建物も先日倒されてしまった。もっともコンビニがたくさんできたから商売にはならないだろう。ただ、駄菓子屋の雰囲気はコンビニとはちがう。
川越市元町二丁目に「菓子屋横丁」がある。気候も天気もよく、多くの人で賑わっていた。
ここには 軒もの駄菓子屋がある。なぜ横丁ができたのか、川越菓子屋横丁会発行のチラシを読んでみよう。
菓子屋横丁は、明治の初め鈴木藤左衛門がこの地に住んで、江戸っ子好みの気どらない駄菓子を製造したのが始まりといわれ、江戸時代には養寿院の門前町として栄えていたところです。
明治の後半からは「のれん分」により、店の数も次第に増え、大正時代に入ってからは、菓子問屋の多かった東京の神田・浅草・錦糸町などが大正十二年の大震災で焼失してしまった影響を受けて、川越の菓子製造業がより盛んになっていきました。
この横丁の最盛期は昭和の初期で、七十余店が軒を連ねシソパン・千歳飴・金太郎飴・麦落雁・水ようかん・かりん糖など、数十種類の菓子が製造されていました。
昔ながらの味と風情を、ごゆっくりとお楽しみください。
関東大震災の影響はこんなところにもあったのか…。シソパン? 子供時代の経験不足か、分からない。分からないから興味が湧く。こんな店、あんな店と見て歩くだけでも楽しい。ただ、ここを訪れたのは別の目的があった。東京ではあまり見かけなくなった丸ポストを見るためだ。この頃、逓信博物館に出かけて調べるなど丸ポストがマイブームとなり、ついにミニチュアまで買ってしまった。南部鉄器だということで、ついうれしくなってしまった。
駄菓子屋と丸ポストはなぜかセットに思えて仕方がない。昭和の思い出だからだろうか。
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