駕籠で行くのは お吉じゃないか 下田港の 春の雨 泣けば椿の 花が散る
逢うてゆきたや 鶴松さんに 幼馴染みの あの人に 忘れられよか 筒井筒
沖の黒船 狭霧で見えぬ 泣けば涙で なお見えぬ 泣くに泣かれぬ 明烏
昭和5年の流行歌、西條八十作詞の「唐人お吉の唄(明烏篇)」である。この昭和5年前後は空前の唐人お吉ブームだったらしい。小説となり演劇となり映画となり歌となり、真山青果、山本有三までもが戯曲化しているのだ。テレビがあったら大河ドラマ化されただろう。
下田市一丁目の宝福寺に「お吉の墓(お吉塚)」がある。お寺や参拝者、観光客の手で丁寧に祀られている。
この墓の由来を当寺の住職は次のように説明する。
おきちの墓の由来(いわれ)
ペリーが日米修好条約を神奈川(横須賀)で締結後、ハリスが通商条約締結のため浦賀に来たが、幕府はこれをこばみ、下田へ上陸させ、玉泉寺を改修させ領事館とした。通訳ヒュースケンはお福を侍妾とするため姉芸者であったおきちをハリスの侍妾とするよう奉行に働きかけ、ここにおきちはハリスの侍妾としてと同時に米側の真意を知る手段として奉仕、日本側が有利になるよう努力。そのため、恋人鶴松にも裏切られ、ラシャメン(洋妾)として町の指弾を受けた。これは人種的偏見ばかりではなく、支度金二十五両、年俸百二十両をおきちが受けたことに対する嫉妬と、外人との間に私生児をうむことを怖れ外人に近づかせないために自然に当時の町の親たちがとったおきちへの制裁と考えられる。
明治二十四年三月二十七日、世をはかなみ、豪雨の夜下田川の上流に投身、さわると指が腐るとて、どこでもひきとりを拒んだので、宝福寺住職竹岡大乗師は快くこれを受け、如来の胸にいだかれたきょうだいとて、人夫二名を雇い、これをもとの墓に葬った。
その後大谷竹次郎、市川松蔦、梅村蓉子、水谷八重子そのほか当山の住職、総代、世話人の手により、おきち自身の墓が作られ、土葬されていた遺骨は昭和五年十一月、ここに新しく改葬された。観音像は当檀家の彫刻家大村正夫氏の寄贈になるものである。尚おきち記念館は直接の関係者による共同出品によるものである。 合掌
宝福寺住職 釈大雲 竹岡範男
昭和5年に芸能人らによって新しく作られた墓がこれだ。向かって右の観音像のある墓がおきちの墓、左は鶴松の墓である。
宝福寺にある唐人お吉記念館でいただいたパンフレットには、おきち19歳の写真(安政6年撮影)やその生涯が年譜とともに詳述されている。美しいお吉、そして美人であることがいっそうの興趣を添える波瀾万丈伝である。
上の写真は、下田市七軒町三丁目の了仙寺にある「お吉塚」である。
了仙寺博物館発売の『唐人お吉一代記』(昭和54年)に掲載されているお吉塚の写真を見ると、苔むした円形の部分には文字が刻まれていたことが分かる。また形は「あわび貝を表す」とも説明されている。
お吉を世に出したのは村松春水という研究家(本業は医師)だ。お吉を実際に知る人々から取材をして大正14年に下田の郷土誌『黒船』に研究成果を発表する。これが昭和初期のお吉ブームに発展するわけだ。季刊『静岡の文化』第76号(2004年)特集「黒船が来た!下田開港150年」所収の鈴木邦彦「唐人お吉の物語」は次のように指摘する。
春水翁のお吉研究の功績は、お吉遺骨の発見からお吉の生涯をほぼ明らかにすることができたこと、お吉に芸者としての教養を授けた村山せんの略歴の解明、お吉がハリス所望の牛乳を調達したことなどをはじめとする数々のエピソードの収集、下田町民の反応を聞き集めたことなどがあげられる。これら翁の調査した事蹟は、十一谷、真山、山本の作品にはほとんど題材として取り上げられており、春水翁の研究をなくしては、どのお吉物語も生まれてこなかった。
ただ、翁は、お吉はハリスの下田滞在中、ずっと玉泉寺に通い続け出仕し通したという説をとっているが、史実としては、三日間通っただけでハリスから断られたようである。
ずっと通い続けたのと3日間とでは大違いだ。あの有名な牛乳のエピソードはどう考えればよいのか。また、豆州下田郷土資料館発行の肥田喜左衛門『下田の歴史と史跡』は、あの有名なお吉の写真について次のように指摘する。
写真史の上では、わが国で初めて写真術を習得した下岡蓮杖が横浜で写真館を開いたのは文久三年(一八六二年)で、天保十二年生まれのきちはこの年二十二歳になる。従ってこれより若いきちの写真はありえないことになる。
しかも「おきち19歳 安政6年」と同じ写真が、写真史が専門の小沢健志氏の著作『幕末・明治の写真』(ちくま学芸文庫)の209ページに掲載されているのだ。タイトルは「娘 明治中期 着色」となっている。
流布している物語のすべてを事実とすることはできないのだろう。しかし、お吉は下田観光の看板としての役割を担ってきた。人を寄せようと思えば興趣に富んだ内容に仕立てるのは当然だし、また行く側としてもそれを期待する。美人、別離、献身、堕落…人の心を動かすキーワードがドラマチックに展開してほしい。人々がそうあってほしいと願う歴史が綴られている。昭和に誕生した新しい伝説なのかもしれない。