「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった」と平塚らいてうが高らかに謳った『青鞜』の発刊は、日本女性史の画期をなす出来事だが、その現場はあまり知られていない。
文京区千駄木五丁目のNTT駒込第一ビルは「『青鞜社』発祥の地」である。それを示すプレートが写真の中央に小さく写っている。
そもそも青鞜社はどのような団体なのか。その団体規約である「青鞜社概則」(「青鞜」創刊号)を読んでみよう。
第一條 本社は女流文學の發達を計リ、各自天賦の特性を發揮せしめ、他日女流の天才を生まむ事を目的とす。
第二條 本社を青鞜社と稱す。
第三條 本社事務所を本郷區駒込林町九番地 物集方に置く。
この物集(もずめ)方が写真の場所である。『地域雑誌 谷中 根津 千駄木』其の二十五(特集:平塚らいてうと「青鞜」)を読んでみよう。
一九一一年六月一日、「青鞜社」第一回の発起人会が、発起人の一人物集和子の父、駒込千駄木林町物集高見邸で開かれる。
「はじめての発起人会を開いた駒込林町の物集邸は樹木にかこまれた宏大な屋敷でした。この第一回の会合で、青鞜社の事務所を物集さんのところに置くようにお願いしました。物集さんが心やすく引受けてくれたのは、わたくしにとってはほんとにありがたいことでした。(中略)」(『元始、女性は太陽であった』)
この邸は団子坂上のいまのNTT駒込電話局の敷地とほぼ同じ広さである。(中略)生前の和子さんにお会いになったKさんは、
「お会いしたときは八十三歳でいらしたけれど、とても楽しいおばあさんで、何事も前むきにごらんになってましたね。『明治の人はしっかりしてるとか、時代が良かったというけれど、今の方が人情は薄いかも知れないけど、自由にものがいえていいですね』とおっしゃってました。(中略)『青鞜』のことはうかがっても『ともかく私は脱落者だっていわれましたから』とおっしゃるので断片的にしか聞けなかったのですが、五色の酒も吉原行もマスコミがいいかげんで大げさなことを書きたてたこと、『青鞜』から抜けたのは物集邸のお勝手口から発禁騒ぎで警官にふみこまれて父上の物集博士が仰天なさったこと、そのころ母違いの六、七つの弟さんが警官が来てブルブル震えていたことなどからやめられたそうで、『あとで考えればだらしないことでした』といってらした。結婚相手の藤浪さんからは『すぎたことは気にしないけれど、もうそういうことはしないでくれ』といわれたそうです。(後略)」
1911年6月に発起人会、9月に「青鞜」創刊、そして翌年の4月18日夜10時、警官に踏み込まれる。出版法第19条違反による発売禁止の処分がなされたのである。その条文とは…
安寧秩序ヲ妨害シ又ハ風俗ヲ壊乱スルモノト認ムル文書図画ヲ出版シタルトキハ内務大臣ニ於テ其ノ発売頒布ヲ禁止シ其ノ刻版及印本ヲ差押フルコトヲ得
荒木郁子の小説「手紙」が姦通を扱っていたのが問題視されたようだ。青鞜社が物集邸から去り、物集和子が青鞜社を去ってからも『青鞜』の刊行は続く。しかし、女流文学の発達を図るという社の目的は「女子の覚醒を促し」と鮮明になり、やがて伊藤野枝の手により無規則とされ、その後休刊となる。
物集邸が青鞜社事務所であったのは1年に満たない短い期間だ。それでも女性が人生をかけた闘いを行った現場である。その生きざまは後に続いた人々の心を衝き動かした。説明板しか残らぬこの場所はどこにでもある風景のようだが、実は記念碑的史跡なのであった。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。