今年は大正百年だそうだ。明治百年は国家的に祝祭行事が行われたが今年はあまり聞かない。明治維新が日本史上の画期であることに異論はないが、今この時に再評価すべきは大正デモクラシーであり大正モダニズムではないだろうか。今日は大正モダニズムの旗手、竹久夢二である。
銚子市海鹿島町に「竹久夢二詩碑」がある。うれしくなって自転車やら花やらと一緒に写したら、肝心の碑文が隠れていた。
この碑には夢二の肖像とあの有名な詩が刻まれている。
宵待草
まてど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ
今宵は月も出ぬさうな 夢二
銚子の市の花はオオマツヨイグサである。夢二にちなんで制定された。夏の夕方に開く黄色の鮮やかな花だそうだ。
明治43年8月のことである。妻子とともに海鹿島に避暑に来ていた夢二は、ここで初めて長谷川カタ(賢子)に出会う。ひと夏の逢瀬、その後、カタが居住地の成田に戻ってからも会う機会はあったようだ。しかし、翌年の夏に夢二が海鹿島を訪れたときには、カタの結婚により逢うことは叶わなかった。そんな悲恋を詠ったのが「宵待草」である。この詩は大正になって曲が付けられ、昭和になってからは映画にもなり親しまれてきた。
岡山市北区後楽園に「竹久夢二詩碑」がある。近くには夢二郷土美術館がある。
この詩碑にも「宵待草」が刻まれている。
まてど暮らせど来ぬひとを 宵待草のやるせなさ
こよひは月も出ぬさうな 夢
この詩について夢二の知己である有本芳水は、写真の詩碑の左隣にある副碑に次のように記している。
郷土岡山邑久郡に生れた竹久夢二
画家であり詩人であった夢二
その絵は線で描いた詩であった
かつては天下の子女を夢の国に誘い
牧歌的で人々の郷愁をさそった
歌麿よ北斉よ広重よ
それに続く夢二であった
五十年に亘る人生の旅それは絵の
道詩の道であった
岡山に帰り旭川の河原に咲いた
宵待草に思いをよせてこの詩を
よんだ
定めなき鳥やなくらむ故郷に鳥
はないているが夢二はもういない
しかしその絵は詩は今もなお生きている
昭和四十一年十月十三日 旧友 有本芳水
「宵待草」は郷土岡山で作られたものだったのか。これがどうも違うようだ。富阪晃『おかやま文学の古里』(山陽新聞社)に次のような記述がある。
この詩は大正二年発行の「どんたく」に発表された。ところで岡山市後楽園の入り口にも「宵待草」の立派な詩碑がある。「夢二が愛する笠井彦乃とこのあたりの旭川岸で逢瀬を楽しんだ。その時の詩だ」という有本芳水の発言から、建立されたのだった。しかしその後、芳水の発言は誤りであることが分かった。詩がつくられたのは、彦乃と出会う以前だったし、作品の場所は千葉県の犬吠埼に近い海鹿島であることが、動かしがたい事実と確認されている。
この他にも「宵待草」の詩碑は各地にある。夢二が逗留した会津若松の東山温泉、夢二が旅した九十九里浜、夢二が店を開いた東京の八重洲、夢二の出身地である瀬戸内市邑久町、夢二が家族と暮らした北九州市の八幡。みんな夢二が好きだ。
石碑の美しさ、観光的な立地条件は岡山の詩碑が勝っている。旭川のほとりでの逢瀬とか川原の花にそっと手を遣る夢二とか絵になる光景だ。しかし、事実の持つ重みは大きい。“くだける波のあのはげしさであなたをもっと愛したかった”やはり切ない恋の物語には岬がお似合いである。
『岡山美少女図鑑』というフリーペーパーがある。2010年6月に発行されたvol.4のタイトルは「1884」。何のことかと思えば夢二がうまれた年だ。夢二式美人も現代の美少女も何ら変わらない。