また、人生の話をするが、振り返った時に「ああ、あの時が分かれ道だった」と思うことは誰もがあるだろう。思ったところでどうしようもないから、あの時にはあれしかなかったのだ、いやむしろ自分の選択は間違っていなかったのだと、自分を納得させてみる。何の話になるのかと期待する向きには申し訳ないが、道の分岐点の話である。
長野県北佐久郡軽井沢町大字追分に「追分宿の分去れ(わかされ)」がある。
写真左手が中山道、右手が北国街道である。片や京、片や直江津とまったく異なる場所に行きつく道が目の前で分かれている。何もそれを人生に例えずとも、旅愁を生起させるに十分な情景だ。印象に残るこの場所には、道標の他に道祖神、歌碑、地蔵、常夜燈と様々な石造物が置かれている。
この地を愛し近くに文学記念館がある堀辰雄は、次のように描写している。旺文社文庫『菜穂子他四編』所収の「ふるさとびと」を読んでみよう。初出は昭和18年である。
村の西のはずれには、大名も下乗したといわれる、桝形の石積がいまもわずかに残っている。
その少しさきのところで、街道がふたつに分れ、ひとつは北国街道となりそのまま林のなかへ、もうひとつは、遠くの八ケ岳の裾までひろがっている佐久の平を見おろしながら中山道となって低くなってゆく。そこのあたりが、この村を印象ぶかいものにさせている、「分去れ」である。
その分去れのあたり、いまだに昔の松並木らしいものが残っていたり、供養塔などがいくつも立ったりしている。秋晴れの日などに、かすかに煙を立てている火の山をぼんやり眺めながら、貧しい旅びとらしいものがそこに休んでいる姿を今でもときどき見かけることもあるのだった。
この作品の冒頭で「分去れの村」と表現されたのが追分宿で、中山道六十九次の随一の宿場町だったそうだ。今は観光地として半日程度の散策にちょうどよい。
追分宿の本陣跡に「明治天皇追分行在所」の碑がある。
天皇は明治11年8月30日に東京を出発し、碓氷峠を越えて9月6日に追分宿旧本陣に宿泊した。翌日、出立した天皇は分去れを右へと進み長野から新潟県内へと行幸する。いわゆる六大巡幸の一つ、北陸東海巡幸である。
天皇の目に分去れはどのように映ったのだろう。私にとって旅は楽しみだが天皇の旅は仕事である。しかも明治政府の基礎を固める重要な巡幸であった。おそらく旅愁に浸るお時間などなかったに違いない。
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