秩父困民党の革命運動はその名の通り、負債に困窮する農民たちが主力だったが、侠気あふれる富裕層がリーダーとして活躍していた。それはあたかも西郷さんが不平士族の不満を一身に背負って立ち上がったように、村人への貸付金を自ら放棄して困民軍を率いた豪農もいた。結果的に鎮圧され「暴動」としての評価を受けるが、別の見方をすれば正義の行動「義挙」ともいえる。
埼玉県秩父郡吉田町石間(現在は秩父市吉田石間)に「加藤織平の墓」がある。
加藤織平は困民軍の副総理である。彼の人物像を秩父事件研究顕彰協議会『ガイドブック秩父事件』(新日本出版社)で読んでみよう。
石間村の上層の農家に生まれ、事件当時36歳。坂本宗作や井上伝蔵等の切望により困民党運動に参加すると、木下丑松外4名の約150円の借金証書を返却し、以来もっぱら細民救助に意を注いだ。
のちに甲大隊長となる新井周三郎が、石間村に教員の職を得ようとして訪れたのが織平宅であり、また上州日野谷の小柏常次郎がやってきたのもここであり、信州の菊池貫平や井出為吉が草鞋を脱ぐのもここであった。このことを見ても重要人物であることがわかる。
蜂起では副総理となり、大宮郷占領の指揮をとった。11月4日の皆野本陣解体後は川越を経由して東京神田に潜んでいたところ、6日に逮捕された。
「加藤織平之墓」は、憲法恩赦で出獄した落合寅市が、同志に副総理の碑建立をよびかけて寄付金を募り建立した。台石の「志士」に警察が腹を立てて削れといってきたが、寅市は突っぱねたというエピソードがある。建立の時期は明治30年代とも、明治末期ともいわれるがはっきりしない。
フラッシュの光が影を消して文字が見えにくいが、確かに「志士」の文字が刻んである。義を見てせざるは勇無きなり、任侠の人、加藤織平が刑場の露と消えたのは明治18年5月17日であった。享年36。日本史上最後の志士かもしれない。
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