『一遍聖絵』には、一遍が筑前のある武士の館を訪れ主人に念仏札を渡す場面がある。ここに描かれている武家屋敷からは、矢倉門、板塀、堀、土塁など典型的な特徴を見取ることができる。そして門番の家来、動物では馬、鷹、犬が描かれ、戦いへの備えをしていたことも分かる。歴史教育ではよく使用される絵である。
結城市大字結城(城の内)に「城の内遺跡<中世武家屋敷跡>」がある。
写真のように堀と土塁が良好に保存されいるし、地図でも方形の区画が分かる。現地説明板の要部を抜き書きしよう。
城の内遺跡は、東西約一七八メートル、南北約一二八メートルで、堀と土塁によって長方形に区画された、中世の武家屋敷跡です。
「城の内」の地名も、中世の館の意味をよく伝えています。
この屋敷跡は、鎌倉時代の初めに、結城氏初代の朝光によってつくられ、室町時代に本町に新たに結城城が築かれるまで、結城氏の館として維持されていたと考えられます。
結城朝光の跡目は二男で嫡子の朝広が継ぎ、四男の重光は山河(のちに山川)氏を名乗る。
結城市大字上山川の東持寺の境内は「中世武家屋敷跡」である。現地説明板を読んでみよう。
現在東持寺のあるこの一画は、今から凡そ七百四十年前、寛元元年(一二四三)鎌倉時代に結城家初代朝光公の第三子である山川五郎重光が山川庄の地頭に任ぜられここに住み屋敷(舘)を構えた所である。
この屋敷は百間四面約壱万坪あり周囲に
堀と土壘をめぐらし若党、下人、所從を住まわせ隣地には農民に耕地を与えて定住させ、一たび戦となると、これらの人々は武器をとって主家を守るという兵農一体の制度であった。
永禄八年(一五六五)十四代山川駿河守氏重が綾戸城に移ってからは、ここに代官を駐在させたので代官屋敷とも稱せられる。
その後山川十六代讃岐守朝重が主家結城秀康に從って越前福井に移ってからは江戸幕府の直轄となり伊奈備前守忠次が来任し代官横田次郎兵衛等がここに住んだ。
代官廃止に際し横田氏の寄進を受けて上山川諏訪神社の別当東持寺が寛永三年(一六二六)四月この地へ移山して以来三百余年を経て現在に至っている。
この屋敷跡は貴重な史跡であるからその保全につとめなければならない。
昭和三十八年十月 結城市教育委員会
山川氏初代重光が結城朝光の「四番目の子ども」(結城市『結城の歴史』)か「第三子」(説明板)かは、庶子を数えるかどうかによるのだろう。結城氏との関係については、十六代朝重が「主家」結城秀康に従って云々とあるが、屋敷の大きさからも分かるように独立的な色彩の濃い一族であった。
東持寺境内に「正和大板碑(せいわおおいたび)」がある。こちらも市指定文化財である。
写真では価値と実物の大きさが分からないので『結城の歴史』を読んでみよう。市内にある二つの大板碑について同時に解説している。
いま塔ノ下の華蔵寺と上山川の東持寺の境内に、鎌倉時代末期の大板碑がある。上山川には、かつて山川氏の持仏堂だという光国寺があってその寺域内に大板碑があったとみられている。いずれも長方形で材質も雲母片岩であり、普通の板碑とは異なる。華蔵寺板碑は、高さ一七二センチ、幅一二〇センチ、厚さ一六センチある。東持寺板碑は、高さ一九〇センチ、幅一一〇センチ、厚さ一六センチある。どちらも一部が欠損している。
華蔵寺板碑は、「帰依世尊」と刻まれ、一三〇二年(正安四)四月一五日の造立となっている。東持寺板碑は、「南无(無)仏」および五重塔が彫りつけられ、一三一七年(正和六)二月一五日の年記がある。「帰依世尊」も「南無仏」も釈迦如来を意味し、これは禅宗系の板碑とされている。この二つの銘文は、鎌倉末期中国より来朝の高僧一山一寧によって書かれたものといわれる。一山一寧は、鎌倉の建長寺・円覚寺の住持を勤め、日本語には通じなかったが、その書は多く書かれ、珍重されて広まったという。
上山川の禅宗寺院光国寺の開基は、山川重義・貞重・光義のうちの誰なのか、また誰が発願して碑を建てたものなのか明らかではない。だが大板碑は、鎌倉幕府と強く結びついた山川氏、それと彼らの信心というその二つを証明するものであることは間違いあるまい。
なんと190cm×110cmの大きさ、さらに一山一寧の手になる銘文だという。山川重義は山川氏2代、貞重は3代、光義はその弟で分立。後に栄えるのは光義の流れだ。鎌倉期の結城。結城本家と山川氏の大きな居館、寺院と巨大な板碑。畏るべし御家人、結城一族。