明治天皇はつくづく偉大だと思う。日本の近代立憲国家の確立と帝国陸海軍の発展を一身で体現されているからだ。天皇は役者でなくてはならぬ。偉大な君主を演じるのであって尊大であってはならない。臣民が期待する人物、つまりは人格者でなくては務まるまい。
結城市大字結城の結城市立結城小学校の西門前に「駐蹕之遺蹟」と刻まれた碑が建つ。写真では左側の碑である。「駐蹕」とは天皇が御滞在になったということだ。右側には菊の御紋が輝き「結城大本営」の文字が刻まれた碑が建つ。それらの手前には、ここが結城百選という市内の名所であることを示す標柱がある。「結城大本営趾と結城小学校」という名称で選定されている。なかなか重厚な史跡のようだ。
上の写真の反対側に目を転じよう。忠魂碑と「明治天皇結城大本営」の標柱が建つ。その間には四角な台石がある。歴史的に注目すべきはこれらの遺物だ。
手元の『結城の歴史』(結城市発行)に結城小学校の前に建っていた日露戦争記念碑の写真が2枚掲載されている。1枚は上の写真と同じ忠魂碑と小ぶりな砲弾を2つ載せたモニュメントが写っている。もう1枚は艦砲をモニュメントとしたもので、その台石には「日露戦役記念」「海軍省…」との文字が刻まれている。これらの記念碑について『結城の歴史』は次のように解説している。
この日露戦争記念忠魂碑は、一九〇六年(明治三九)に建てられた。記念碑の砲は海軍省から、砲弾は陸軍省から下附されたと記されている。二つとも太平洋戦争中に鉄材として供出された。
なるほど、これで分かった。忠魂碑は元のままであるとして、その右の茶色い台石には上面に二つの穴があるようだ。しかも「日露…」「陸…」のような文字も読み取れる。これこそ陸軍省下附の砲弾モニュメントの名残だ。さらに右の「明治天皇結城大本営」碑の台石には「日露…」「海軍…」の文字があったらしき痕跡がある。これこそ海軍省下附の艦砲モニュメントの名残である。
記念碑の建てられた1906年は、ある意味日本の絶頂期である。その前年に対露戦勝しており、自信と誇りに満ちた明治円熟期の空気に浸っていたことだろう。翌1907年には茨城県で明治天皇御来臨のもと陸軍特別大演習が行われ、結城高等小学校に大本営が設けられたのである。奉迎の様子を『結城の歴史』で読んでみよう。
この日を迎えるにあたって、結城小学校をはじめとして中心地域住民の準備作業は七月中旬から始まった。まず、各戸毎の徹底した清掃と飲料用の井戸払いが指示された。大本営の建物は、宮内省の匠寮の設計に基づいて用意されたが、天皇行在所については床下となる土を約七センチメートルの深さまで削り取り、消毒した上乾燥した土砂と入れ替えた。
建物についても、ホルマリン散布(二四時間密閉)の後、開放して日光乾燥後カリ石鹸の熱湯液で洗浄、再びアルコールと薬液による洗浄をし、さらに日光乾燥という作業が続けられた。
現在課題となっている除染作業のようだが、それくらい奉祝ムードに包まれていたということだろう。この戦勝意識が我が国の戦争観を歪めてしまうこととなる。記念碑の建立、金属の供出、文字の塗りつぶし、日本の近代史後半の歩みがここに象徴されている。