土一揆と百姓一揆はどう違うのだろう。中世と近世で呼び名が異なるだけだろうか。百姓一揆は首謀者が処刑されることが多かったが、土一揆はどうだったのだろう。土一揆の史跡の決定版を訪ねた。
奈良市柳生町に「正長元年柳生徳政碑」がある。国指定の史跡である。疱瘡(ほうそう)地蔵とも柳生磨崖碑ともいう。元応元年(1319)11月の銘があるという。
正長元年(1428)9月、債務の放棄を求めて土民が蜂起した。「日本開闢(かいびゃく)以来」と大乗院尋尊を驚かせた正長の土一揆は、動乱の中世を象徴する事件である。蜂起の結果は?
尋尊は「管領これを成敗す」と記録している。ということは一揆は失敗に終わったのか。そうではない、という証拠が上の写真だ。正長元年以前の神戸四箇郷における借金は消滅した、という意味の文字が刻まれている。郷土史家(元吐山尋常小学校訓導兼校長)の杉田定一さんが大正年間に研究し大正14年1月15日付の大阪朝日新聞大和版で記事となり世に知られるようになった。
刻字部分は以前、拓本で黒く汚れていた。そんな写真もよく見かけたものだ。この貴重な碑文がどのように刻まれたのか、『奈良県の歴史』(山川出版社、2003年)は次のように記している。
奈良市柳生町には「正長元年ヨリサキ者、カンへ四カンカウニ、ヲヰメアルヘカラス」と記された神戸四箇郷(大柳生・小柳生・阪原・邑地)の徳政碑がある。教科書にも掲載されて有名なこの碑文には、いくつかの解釈がある。中世末の天文・永禄ごろになって記念碑的にきざまれたという永島福太郎説。正長元年に興福寺がだした徳政令をうけて直後に彫られたという永原慶二説。村々で行われた在地徳政の碑であるという瀬田勝哉・佐々木銀弥説。借金を疱瘡と同じような病・災いと感じたゆえに疱瘡地蔵に彫ったという千々和到説。室町の通史になくてはならないこの碑文は、これからも多様な側面から検討されるに違いない。
負債の取り消しを勝ち取った事実を石に刻んで記録し、その誇りを記憶として残そうとしたものだろう。その試みは見事に成功した。写真では何も判別できないのだが、以前に採られた拓本やそれを紹介した教科書で全国の子どもたちにも伝えられている。生きる力は過去に学べということだ。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。