正義の戦いとは何だろうか。悪政を行う幕府を倒し正しい政治体制を回復する。確かに正義の実現かもしれない。革命とはいつもそういう理由で行われてきた。しかし「正義」という語は、戦いの当事者が都合の良いように解釈して使用する場合が多いのも事実だ。権力闘争とみる方が的確かもしれない。
京都府相楽郡笠置町大字笠置字笠置山に「後醍醐天皇行在所跡」がある。
元弘元年(1331)8月24日夜、密かに内裏を出た後醍醐天皇は翌25日に東大寺東南院に入る。しかし東大寺には幕府方に通じる者がいたため、26日には鷲峰山(じゅうぶざん)、27日には笠置山へと遷座する。天然の要害に籠ったものの、この先どうなるか分からぬ不安の中で帝は歌を詠んだ。
うかりける身を秋風にさそはれて 思はぬ山のもみぢをぞ見る
思うことは成らず、つらいと思っている身をば、吹く秋風に誘い出されて、思いもかけぬ、この笠置山の紅葉を見るとは、何という悲しいことであろう。(高木武『新釈増鏡』修文館)
そんな時、忠臣の真打、楠木正成が登場となる。後醍醐の霊夢によって召し出された正成は、「智を較べんか、則ち臣に策有り」「陛下、苟も正成未だ死せずと聞かば、則ち復(また)宸慮を労すること毋れ」(『日本外史』)と言上し、宸襟を安んずるのである。
天皇方2500の兵は北条方7万5000の大軍を相手によく持ちこたえたが、9月28日夜半、嵐の中の奇襲攻撃により笠置山は陥落する。帝はまもなく有王山(京都府綴喜郡井手町)の麓で捕らえられる。
後醍醐がまだ笠置山で抵抗していた9月20日、光厳天皇が践祚する。ここに事実上紛れもなく後醍醐は天皇位を廃されたのだが、後醍醐自身は認めない。後に復辟してからは光厳が即位した事実を否定することとなる。しかしこの時、京と笠置山に天皇を名乗る人物が二人存在したことになる。南朝の始まりである。
天皇の籠城、楠木正成との対面、天皇の廃位、一か月間ではあるが後醍醐帝の生涯を象徴するようなドラマが展開されている。権力闘争に正義はないが、人の心を惹きつける魅力がある。
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