クスノキには深い思い出がある。小学校の校庭にあったその大木は、子どもたちの格好の遊び場になっていた。一番よくやったのは、「だるまさんがころんだ」という遊びだ。もっとも鬼の言うセリフは「インド人の黒んぼ」だった。その他にも、どこまで駆け上がれるかを競ったり、リレーの折り返し地点としてタッチする場所ともなったりした。
四條畷市雁屋南町に「小楠公墓地」がある。ここのクスノキの巨大さには驚くばかりである。全景を収めようとしたが無理であった。
楠木正行の墓所にクスノキの大木があるとは、偶然なのか人為なのか、それとも神のなせる業なのか。四條畷市の「市の木」は当然ながら「くすのき」である。このクスノキの由来を、畷古文化研究保存会が昭和56年11月に設置した説明板で読んでみよう。
この墓地は、南北朝の南朝忠臣楠正成の長子正行公が足利尊氏の部将高師直の大軍と戦い、戦死し葬られた所である。正平三年一月、今から六三三年前で、その後、ここに小さな石碑が建てられていた。その後、一〇〇年余りして何人かが碑の近くに二本の楠を植えたが、これがその二本合し、石碑をはさみこみ、このような大木(樹齢約五五〇年)となった。今も正行たちの忠誠を永遠に称えている。
我が会は、この意義ある楠を保存する。
昭和四十六年三月三十一日、大阪府天然記念樹に指定されている。
ということは、楠木正行の戦死という事実があり、ゆかりの場所にクスノキが植えられたということだ。しかも二本が合わさって、迫力も2倍である。
クスノキの右に「贈従三位楠正行朝臣之墓」と刻まれた、これまた巨大な石碑が建てられている。『四條畷市史第四巻』によると、楠木正行に従三位の贈位があったのが明治9年12月27日、刻字が完成したのが10年8月2日だという。この間、西南戦争が勃発している。「贈従三位楠…」を揮毫したのは、盟友西郷隆盛と戦った大久保利通である。歴史が動いている最中に書かれた文字であった。
正行は後に従二位を追贈される。西郷は正三位に、大久保は従一位をそれぞれ贈位された。忠義の志士への感謝の意が込められているのだろう。
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