自民党の憲法改正案によると「国防軍」が創設されるそうだ。自衛軍だとか自衛隊とか様々に呼んでみるものの、つまりは日本軍なのである。その日本軍の最初の戦いが、日本最後の内戦、西南戦争であった。敵は初代の陸軍大将、西郷隆盛であり、その征討に向かったのは二代目の陸軍大将、有栖川宮熾仁親王である。
大将ばかりに注目すべきではなかろう。一将の功成りて万骨枯る。同胞相討つ戦場に命を散らした若者がいたことを忘れてはならない。
四條畷市大字中野に「西征戦死招魂碑」がある。
十年前に旧幕府勢力を追って東征した官軍は、今や新政府に不平を抱く薩軍を鎮めるために西征したのだ。もはや武士の戦いではなくなっていた。国民皆兵である。地域から戦死者が出れば、その霊は地域で弔うこととなる。「西征戦死招魂碑」には北河内出身の16柱の霊が祀られている。あの有名な田原坂の激戦では3名が命を落としている。
ここ北河内(河内国第三大区)からは200名前後が参加したと『四條畷市史第四巻(史跡総覧)』は推測している。同書の「西征戦死招魂碑」の項から一部を抜粋しよう。
第三大区帰還者の中には、負傷療養中の者もあったであろう。共に戦い、戦傷死した友を弔うべく、明治十一年四月二十八日に、小楠公墓所で盛大な招魂祭を行った。小楠公墓所が三〇坪から三〇〇〇坪へ拡張されたのは明治八年、七メートルの巨大碑が建立されたのは、明治十一年一月五日、それから三か月後に西南戦招魂祭が盛大に行われ、西征戦死招魂碑を建て、戦死場所・月日・出身村落名を記して、犠牲者の霊を祀った。
小楠公墓所の拡張により愛郷心が高揚する中で招魂祭が執り行われた。戦争の慰霊碑は日露戦争以後に建てられることが多かった。勝利が愛国心を高め、愛国心が犠牲者への慰霊の念を強めさせた。西南戦争の慰霊碑は、それほど多くはないはずだ。戦争の近代史を語る貴重な史跡だと言えよう。
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