数字13に思いを込めるのは洋の東西を問わない。13日の金曜日を始め西洋では忌むべきイメージがあるが、我が国においては吉数と見る向きが多い。そもそも大阪には「十三」という地名がある。十三参りは、生まれた年の干支が初めて巡ってくる数え年13歳をお祝いし、子どもの成長を感謝する習俗である。十三仏は、成仏へと導いてくださる13の仏様である。では十三塚とは何だろうか。
大阪府八尾市神立から県境を挟んで奈良県生駒郡平群町福貴畑にかけて「生駒十三峠の十三塚」がある。国指定の重要有形民俗文化財である。
写真には標石と塚の一つが写っているだけだが、この塚の左右にそれぞれ6つの小さい塚が並んでいる。南北90mに及ぶ意外に大きな遺跡である。井上正雄『大阪府全志』(大正11年)巻之四・河内国中河内郡北高安村の大字神立の項を読んでみよう。
東方高安山を越えて大和の龍田に通ずる経路に三条あり、一は十三街道にして字七曲より拾参町余にして嶺上に達す、嶺上に古円塚十三あり、故に此の名あり。塚は中央に大塚ありて、之を親塚又は王塚と称し、其の左右両方に六個づゝの小塚駢列せり。塚の南方弐町許の所にまた経塚と呼べるあり。里俗の口碑に依れば、其の大塚は神武天皇の皇后五十鈴媛命の御陵にして、小塚は殉死者の塚なり、又経塚は貴顕の御方の霊を弔はんが為経文を埋めし所なりと伝へ、人若し之に触るれば祟りありとて里人今に之を怖るとなん。
十三塚は中世の十三仏信仰に関係があるのかもしれないが、はっきりしたことは分かっていない。ただ、街道沿いに、しかも河内・大和の国境に造られていることには、厄災を断つなどの意味が込められていたのだろう。
伝説の被葬者、五十鈴媛命(イスズヒメノミコト)は、正確には媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)といい、第二代綏靖天皇の母親である。神武天皇は日向のお方だが五十鈴媛命は地元大和の御出身だ。十三塚の主に擬せられたのは大和の守り神の意味があったのかもしれない。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。