お城と学校は意外に関係が深い。金沢大学が近年まで金沢城内にあったことは有名だし、昔のことだが岡山城内には岡山一中があった。もちろん殿様が教育に関心が高かったということではなく、広い敷地が学校用地に適していたのだ。
和歌山市里の和歌山市立山口小学校は「山口御殿趾」に建てられており、かつて校門前には石橋が架かっていた。現在は日本庭園風に保存されている。
山口御殿は紀州御殿ともいい、紀州徳川家の休憩所として利用されていた。こうしたゆかりを山口小学校の校歌の2番が次のように伝えている。
水清し 水清し
流れよどまぬ紀ノ川の
紀州御殿のあとここに
ゆかりゆかしく花ひらく
清い学びの花ひらく
山口 山口 山口小学校
紀州御殿が建てられる前には、地元の有力武士、山口(易井)喜内の屋敷があった。山口喜内ははじめ浅野氏に仕えていたが、大坂夏の陣に際しては紀州一揆の一味として豊臣方に加勢した。喜内の子、兵内の妻はお菊といい、豊臣秀次の娘である。
山口小学校の西にある遍照寺には山口氏一族の墓がある。「慶長二十年」や「五月七日」の文字を読み取ることができる。慶長20年とは1615年。その年の5月7日には大坂夏の陣、最後の決戦が行われた。翌8日に大坂城が落ちる。
豊臣方についた土豪、御三家の徳川の屋敷、そして明治6年に開校した山口小学校。紀州御殿と小学校のゆかりは校庭の石橋、校歌の歌詞だけではない。校章に三つ葉葵の御紋がデザインされているのだ。歴史的な環境構成の中で子どもたちは学んでいる。
母港
投稿情報: 匿名希望 | 2017/08/05 22:10