中国の歴史上の人物のうち、岳飛(がくひ)は一、二を争う人気だそうだ。漢民族の英雄である。当時の宋(漢民族)は北方から金(女真族)に攻め込まれ亡国の危機を迎えていた。岳飛は農民出身ながら文武両道、義勇軍に入り数々の軍功を上げ皇帝から認められる。しかし、政府の方針に反し徹底抗戦を主張し、冤罪により処刑された。背に「尽忠報国」の四字が入れ墨されていたという。
売国奴、秦檜(しんかい)という悪役に対し、岳飛は、民族を思い国に尽くす好漢、そして不本意な死を迎えた悲劇の英雄として描かれてきた。今年の5月から北方謙三『岳飛伝』(集英社)が刊行されている。ハードボイルドな人間模様が展開されていくのか、どうなのだろう。興味の湧くところだが、今日はその岳飛が大好きだった日本の若者の話である。
福井市左内町に「景岳先生之墓」がある。これは岳飛を景慕(けいぼ=あおぎ慕うこと)するがゆえに景岳と号した橋本左内の墓である。
巨大な「橋本左内先生像」もある。左内は安政の大獄において26歳にして刑死した。26歳にして日本史に名を残したとは、さすがに銅像となるだけの大人物なのだろう。
少年期から「景岳」と号し、15歳にして『啓発録』という自らの行動規範を示した思想書を著した。その要点は次の5つである。
稚心を去る
気を振う
志を立てる
学に勉める
交友を択ぶ
このような優等生がなぜ処刑という残酷な終末を迎えねばならなかったのか。安政4年に藩主・松平春嶽に抜擢され、将軍継嗣問題に奔走し一橋慶喜の擁立を図った。これに対し大老に就任した井伊直弼は一橋派への大弾圧を開始し、橋本左内はその行動が「公儀憚らざる致し方」とされ斬首されたのである。安政6年(1859)10月7日のことであった。
当時、条約勅許問題で国内は揺れていたが、左内は幕府の独断専行を戒め朝廷を重んじることを訴えただけでなく、外交論でも注目すべき主張をしている。安政4年(1857)11月28日付の村田氏寿宛の書状に次のような一節がある。『日本思想大系55渡邊崋山高野長英佐久間象山横井小楠橋本左内』(岩波書店)から引用しよう。
偖、日本は迚も独立難相叶候。独立に致し候には、山丹・満州之辺・朝鮮国を併せ、且亜墨利加洲或は印度地内に領を不持しては迚も望之如ならず候。此は当今は甚六ヶ敷候。其訳は、印度は西洋に被領、山丹辺は魯国にて手を附掛居候。其上今は力不足、迚も西洋諸国之兵に敵対して比年連戦は無覚束候間、却て今之内に同盟国に相成可然候。然処亜国其外諸国は交至候も不苦候へ共、英・魯は両雄不並立国故、甚以扱兼申候。其意は既にハルレス口上にも歴然、其上近来争闘之迹にて明白に御坐候。依之、後日英より魯を伐先手を頼候歟、又は蝦夷・箱館借呉候旨可願出候。其時断然英を断候歟、又は従候歟、定策可有之事。小拙は是非魯に従ひ度奉存候。其訳は信あり、隣境なり、且魯と我とは唇歯之国、我魯に従候はば魯我を徳とすべく候。左すれば英怒り可伐我、此我願なり。我孤立にて西洋同盟之諸国に敵対は難致、魯之後援有れば、仮令敗るゝも皆滅に不至は了然に候。然れば此一戦我弱を強に転じ、危を安に変候大機関に御坐候て、此より我日本も真之強国と可相成候。其上其戦争迄には是非魯国并亜国より人を倩ひて我国之大改革始、水軍陸戦共精励可為致事と奉存候。
さて、現在の日本はとても独立していける状態ではありません。独立するには沿海州・満州のあたり、朝鮮国を併合し、かつアメリカ州あるいはインドに領土を持たなくては、とても望み通りにはなりません。しかし、これは現在の状況では、はなはだ難しいことです。その理由はインドは西洋に領せられ、沿海州のあたりはロシアが手を付けかけているからです。そのうえ、今の日本は力不足でとても西洋諸国に敵対して何年も戦い続けられそうにはないので、むしろ今のうちに同盟国をつくっておくべきだと思います。そこで考えてみますと、アメリカやその他の諸国がかわるがわる訪れても困ることはないでしょうが、イギリスとロシアは両雄並び立たざる国ゆえに、はなはだ扱いが難しいところです。それはすでにハリスの言うことからも確かですし、近年の両者の争いを見ても明白であります。そう考えますと、将来、イギリスは日本にロシアを攻撃する先手を頼んでくるかもしれませんし、北海道の函館を貸してくれと願い出るかもしれません。その時、断然イギリスの要求を拒否するのか、従うのか、方策を定めておくべきです。私はぜひロシアと同盟したいと思います。その理由はロシアは信義の国であり、国境を接する隣国だからです。そしてロシアと日本とは唇と歯のように密接な関係であり、日本がロシアと同盟すれば、ロシアは日本をありがたい国だと思うでしょう。そうすればイギリスは怒って日本を攻撃するかもしれませんが、これぞ我が願いです。日本は単独で西洋諸国に敵対することは困難ですが、ロシアの後援があれば、たとえ敗れたとしても壊滅とはならないことは確かです。そう考えると、この一戦は日本を弱から強に転じ、危うきを安きに変える好機であって、日本も真の強国となるに違いありません。そのうえ、その戦争までにはぜひロシアとアメリカから人材を雇って我が国の大改革を開始し、陸海軍に一生懸命訓練させるべきと考えています。
何とも壮大なビジョンではないか。イギリスとロシアは対立関係にあるが、日本はロシアと同盟するとともにアメリカとも協力して富国強兵に努める。さらには満州や朝鮮に植民地を獲得して西洋列強に対抗すべきであると。現実にはイギリスと同盟関係が結ばれるが、近代日本の外交関係は左内の構想に沿って進められたように見える。
異人憎しとの偏狭な小さき攘夷ではなく、国を開き富国強兵によって西洋列強に伍していこうとする大いなる攘夷である。強国となるとは属領を持つことに他ならなかった。あの吉田松陰先生でさえ同様な構想を抱いていたのである。そして、松陰の門下生が明治政府をつくり実行に移したのだ。
景岳先生もまた時代の子である。先生の国家構想は現代日本のイメージするような善隣友好の国際関係とは異なる。弱肉強食の中でいかに強くなっていくか。列強のパワーゲームの中で遠交近攻の策を講じ日本を真の強国にしていく。これを帝国主義と批判することは簡単だが、経済力のない当時の日本の採りうる方策として他に何が考えられただろう。
国の将来を思い国事に奔走した景岳橋本左内先生。明治24年(1891)に坂本龍馬と同じく正四位を贈られた。しかし、岳飛のごとく尽忠報国の志を抱く先生は「景岳」と呼ばれることを一番の誇りに思うのではないだろうか。