東京の首長経験者と大阪の首長が大同団結して、第三極となる政治勢力勢力を築き上げようとしている。雲間から一瞬の陽光を放った「太陽の党」とはいったい何だったのか。日本維新の会に合流したことで、大阪の人の笑いのネタにならなくて済んだ。歴史を変えようと国会議員も活発に動いている。既成政党から飛び出し新政党を設立して将来の日本のあるべき姿を訴えている。
政治家だから、国民の生活向上や日本の国益を思って変革を主張しているのだろうが、実のところ、彼らの言うほど歴史は動かないだろう。かつて生まれては消えていったミニ政党がそうであったように。今回動きを見せた国会議員にしたって、総選挙で埋没してしまわないようにアピールしている側面もあるだろう。
しかしながら、歴史は本人の思い以上に動いてしまうことがある。本日の大河ドラマ「平清盛」では、いよいよ以仁王の令旨が発せられ歴史が大きく動き始める。すなわち源頼朝が平氏打倒に向けて蹶起するきっかけとなり、ひいては以後数百年に及ぶ本格武家政権の成立とあいなるのだ。
もちろん以仁王が描いていた我が国の将来像はそのようなものではなかった。平清盛の血を承ける安徳天皇が即位し平氏の独裁が強まる一方で、以仁王は皇位継承はおろか発言権さえ失いかねない状況となった。そこで、平氏に不満を抱く源氏や寺院の武力に期待して政権を打倒しようと令旨を発したのであった。当然、自身の即位をも視野に入れていたであろう。王を猶子としていた八条院暲子内親王もそれを強く望んでいた。
以仁王は源氏に政権を与えようとしたわけではない。国家構想としては、院政期の政治体制の枠を超えるものではなかっただろう。それがどうだ。図らずも歴史の画期をつくることとなり、教科書にも登場しているではないか。本日の紹介は以仁王が無念の最期を遂げた場所である。おそらくは大河ドラマの平清盛紀行でも取り上げられるのではないか。
木津川市山城町綺田神ノ木に「以仁王御墓」がある。隣接の高倉神社の御祭神はもちろん高倉宮以仁王である。
以仁王の令旨は絶大な効力を発揮するのだが、王自身は源頼政と園城寺の協力を得るも、武運つたなく、この地で落命する。その模様を『平家物語』(宮の御最後の事)で読んでみよう。(『平家物語評釈』、明治書院、大4)
飛騨の守景家は古兵にてありければ、このまぎれに宮は定めて、南都へや落ちさせ給ふらんとて、ひたかぶと四五百騎、鞭鐙をあはせて追っかけ奉る。案の如く宮は三十騎ばかりで落ちさせ給ふ所を光明山の鳥居の前にて追っつき奉り、雨の降るやうに射奉りければ、いづれが矢とは知らねども、矢一つ来って宮の左の御側腹に立ちければ、御馬より落ちさせ給ひて、御頚取られさせ給ひけり。御供申したる鬼佐渡、荒土佐、荒大夫、刑部俊秀も、命をばいつの為にか惜しむべきとて、さんざんに戦ひ、一所で討死してげり。
(中略)
さる程に南都の大衆七千余人、兜の緒をしめ、宮の御迎に参りけるが、先陣は木津に進み、後陣は未だ興福寺の南大門にぞゆらへたる。宮ははや光明山の鳥居の前にて、討たれさせ給ひぬと聞えしかば、大衆力及ばず、涙をおさへて止りぬ。今五十町ばかり待ちつけさせ給はで、討たれさせ給ひける、宮の御運のほどこそうたてけれ。
以仁王は興福寺と連携しようとして、南都奈良へ向かっていたのだが、あと少しの地点で討ち取られた。さぞや悔しいことであったろう、そんな思いから、以仁王逃亡伝説が生まれている。うちの本棚に『皇子・逃亡伝説-以仁王生存説の真相を探る』というのがある。民衆に英雄視されているからこそ、架空の生を得ることができるのだ。
以仁王御墓の南の線路沿いに「浄妙塚」があり、以仁王墓陪冢とされ宮内庁が管理している。
浄妙とは何者か。宮内庁管理だから皇族の一員なのか。『平家物語』(橋合戦の事)を読んでみよう。
また堂衆の中に筒井の浄妙明秀は、褐の直垂に黒革縅の鎧著て、五枚兜の緒をしめ、黒漆の太刀を佩き、二十四さいたる黒母衣の矢負ひ、塗籠籐の弓に、好む白柄の大長刀取り添へて、これもたゞ一人、橋の上にぞ進んだる。大音声をあげて、「遠からむ者は音にも聞け、近からむ人は目にも見給へ。三井寺にはかくれなし、堂衆の中に筒井浄妙明秀とて一人当千の兵ぞや。われと思はむ人々は寄りあへや、見参せむ」とて、二十四さいたる矢を、さしつめ引つつめ、さんざんに射る。矢庭に敵十二人射殺し、十一人に手負せたれば、箙に一つぞ残りたる。その後、弓をばからと投げ捨てゝ、箙も解いて捨てゝけり。つらぬき脱いで跣になり、橋の行桁をさらさらと走りける。人は恐れて渡らねども、浄妙房が心ちには、一條、二條の大路とこそふるまうたれ。長刀にて向ふ敵五人なぎ伏せ、六人に当る敵にあうて、長刀中よりうち折れて捨てゝけり。その後、太刀を抜いて戦ふに、敵は大勢なり、蜘蛛手、かくなは、十文字、蜻蜒がへり、水車、八方すかさず切ったりけり。向ふ敵八人切りふせ、九人に当る敵が兜の鉢にあまりに強くあて、目貫のもとよりちやうと折れ、ぐっと抜けて、川へざっぶとぞ入りにける。頼む所は腰刀、死なんとのみぞ狂ひける。
(中略)
浄妙房ははふはふ返りて、平等院の門の前なる芝の上に物の具ぬぎ捨て、鎧に立ったる矢目を数へたれば六十三、うらかく矢五所、されども痛手ならねば、処々に灸治し、頭からげ、浄衣着、弓切り折り杖につき、平足駄はき、阿弥陀仏申して、奈良の方へぞまかりける。
筒井浄妙とは園城寺の寺法師であった。宇治橋をめぐる合戦で大活躍したが衆寡敵せず、最後は奈良へ向かった。以仁王と運命を共にしたわけではなさそうだが、ここに塚があるのは王の菩提を弔ったということだろうか。
以仁王は自らの運命を切り開こうとしたのに、結果的に開かれたのは鎌倉幕府であった。悲運の王を地元の方々が丁重にお祀りしている。この時代、生まれが皇位を嗣ぐにふさわしく自らそれを望んだとしても、政治力学で叶わぬことがしばしばあった。現代においては国会議員の地位を得られるかどうかこそ、自分の思いだけではどうにもならない。
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