ゆりかもめに乗って橋を渡ると、そこはお台場。お台場といえば、アクアシティお台場でありダイバーシティでありフジテレビである。トレンドの先端を行く場であって、我が国の繁栄ここに極まれり、である。東京に住んでいた頃、下宿のトイレからレインボーブリッジを、異次元への入口のように見ていたことを思い出す。
鳥取県東伯郡北栄町由良宿に「由良台場跡」がある。国指定史跡「鳥取藩台場跡」の一つである。史跡に隣接して「お台場公園」という遊具のある施設がある。東京にも鳥取にもお台場はあるのだ。
話を整理しよう。「お台場」と名が付くのはアミューズメント施設で、「台場」なら軍事施設だ。東京のお台場にも「台場公園」があるが、これが幕府の築造した第三台場であった。では鳥取の「由良台場」とは、どのような施設だったのか。北栄町教育委員会が設置する説明板を読んでみよう。
江戸時代末期、外国船がしきりに日本の近海に出没し沿岸をおかした。幕府は各藩に命じていっそう海防を厳重にするよう通達した。
鳥取藩主池田慶徳は海防上砲台場築造の必要を認めその建設を砲術家武宮丹治に命じた。丹治は文久三年(一八六三)瀬戸村の武信佐五衛門の宅に来て相談、六尾反射炉をつくった武信潤太郎の建議をもとに由良川の河口に建設することにした。潤太郎はフランス式の築城法をもとに自ら設計し由良藩倉二十一ヶ部落の農民を集め指導監督して建設した。土塁の基礎は東隣の畑の砂を積み上げてつくり、土はかじ山(自動車運転免許試験場)と清水山(元大栄中グランド北隅)より、芝生は干目野(県園芸試験場)から運んだといわれる。
由良お台場は六角形で、東西一二五メートル、南北八三メートル、周囲約四〇〇メートル、面積約一一.九一三平方メートルである。大砲は七門配置され、この守備には農兵があたり、郷土の護りを固めた。数年後明治維新となり、大砲は廃棄改鋳され、台場は大正一四年八月由良町(現大栄町)に払い下げられ今日に至っている。
この台場はその規模が大きく形の整っていること、原型を完全にとどめている点などから、県内はもちろん全国的にも貴重な存在であり、永久に保存すべきものとして各方面から注目されている。
上の写真では正面から右方にかけて日本海が広がる。矩形の海側の角を切った六角形の台場である。どこから現れるやも知れぬ敵艦に対処するため大砲が放射状に配置されていた。実際には何事もなかったが、昨今の国境をめぐる近隣諸国との軋轢を考え合わせると、海防の必要性はむしろ高まっているのかもしれない。
だが、かつての軍事施設は、今、芝生の美しい緑地である。気候の良い時期には、子どもたちが遠足でお弁当をいただくのだそうだ。
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