吉川弘文館が『敗者の日本史』シリーズを刊行している。ある意味、歴史は勝者のものであり、敗者は不当に貶められている面がある。敗れし者といえども、ポリシーなり志を抱いて人生をかけて争ったのだから、人の生き方として肯定的に評価すべきであろう。勝者を称賛しても面白くない。敗者を礼賛するのは私の密かな喜びである。
このシリーズ第1回配本は『承久の乱と後鳥羽院』であった。承久の乱は一見、後鳥羽院の時代錯誤の無謀な行動に思えるが、これも結果論であろう。院は幕府の存在を否定したかったわけではない。いったんは三代将軍実朝を王朝権力へ組み入れることに成功し、朝幕関係が良好な時期があったのだ。統合の障害となったのは独立志向の北条氏である。故に実朝の死後、北条氏を排除して東国における朝権回復を企図した。これが承久の乱である。
この国のかたちの理想を追求した王者であった後鳥羽院は白拍子を愛していた。一般に国家論と女性関係は別問題だが、別にならないところに王者の悲劇がある。今日の史跡は後鳥羽院の寵姫ゆかりの神社である。
豊中市庄本町一丁目の椋橋総社の境内に「出世亀菊天満宮」がある。祭神は菅原道真である。
「亀菊」は、もと江口か神崎のあたりの遊女であったが、美貌ゆえか人好きのする性格ゆえか、白拍子好みの後鳥羽院の寵愛を受け「伊賀局」と呼ばれるまでに「出世」した。そして、彼女の名を歴史に刻みつけたのは、あの承久の乱の原因をつくったことである。『吾妻鏡』承久3年5月19日条を読んでみよう。
武家天気に背くの起こりは、舞女亀菊の申状に依って、摂津の国長江・倉橋両庄の地頭職を停止すべきの由、二箇度院宣を下さるるの処、右京兆諾し申さず。これ幕下将軍の時、勲功の賞に募り定補するの輩、指せる雑怠無くして改め難きの由これを申す。仍って逆鱗甚だしきが故なりと。
幕府が上皇に従わないのは、次のような事情からだ。白拍子の亀菊の申し出によって、摂津の長江・倉橋の両荘園の地頭をやめさせるよう、上皇が二度も命令してきたが、北条義時は承諾しなかった。これは、将軍がおられる時に幕府のためによく働いた武士を任命した地頭の役職は、さしたる過失がないなら、やめさせることはできないからだ。そのように説明したので、上皇は激怒したのである。
この時、院は実朝の後継となる皇族将軍の下向と地頭の罷免を取り引きし、幕府を揺さぶろうとしていたのである。しかし、幕府は揺るがなかった。一所懸命の武士の魂を売るなんぞ有りえないことだった。
承久の乱に敗れた院は隠岐へ流され、伊賀局こと亀菊も院に同行した。院の死後に帰京し、出家して帰本尼と名乗り院の菩提を弔ったという。
それより遥か以前、建永二年(1207)に法然の弟子の安楽房遵西らが、院の御所の女房と密通したとして斬罪となった。後に法然、親鸞までもが流罪となる「承元の法難(建永の法難)」である。密通した女房が伊賀局亀菊と坊門局だとも、密通ではなく松虫・鈴虫という姉妹が出家しただけだともいう。
もし伊賀局亀菊なら歴史上、実にお騒がせな女性であるが、彼女に振り回された上皇様もいかがなものか。武者の世の到来も専修念仏の民衆への普及も見通すことができず、近視眼的に権力を行使した。
それでも、歴史を俯瞰できる人物など、どこにいるだろうか。人はみな、それぞれの場所で今の幸せのために一所懸命に生きているのだ。帝王は帝王なりに、白拍子は白拍子なりに。
亀菊は、自分が領していた椋橋荘の中心地(庄本・しょうもと)で「出世亀菊」と崇敬されている。懸命に生きた結果が出世となった。あやかりたいものである。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。