今月5日に歌舞伎役者の十八代目中村勘三郎が亡くなった。私は歌舞伎ではなく『元禄繚乱』などテレビで活躍する姿ならよく知っている。だから勘九郎のほうがピンと来るのだが、名優として今後に期待されていただけに誠に惜しい限りである。ラジオで聞いたことだが、なんでも「中村勘三郎」は大名跡らしく、初代は寛永年間に江戸で興行を始めた江戸歌舞伎の祖ということだ。今日のレポートはさらにさかのぼって、歌舞伎を始めた、あの有名な女優の話である。
出雲市大社町杵築北の奉幣山の山腹に「於国塔」がある。於国とは出雲阿国で、側面の銅板にその姿が描かれている。昭和11年に建立されたこの塔は櫓の上に九重塔が乗る独特のデザインである。この銅板と塔の相輪は先の大戦で金属供出で失われたが、昭和43年に復元された。
この塔は地元の立憲民政党代議士、木村小左衛門の尽力で建立された。木村は戦後、片山内閣において最後の内務大臣を務めた有力政治家である。さらに、正面の「於国塔」は近衛文麿の揮毫である。
銅板レリーフの阿国は数珠をかけており、さらに仏の光背のように数珠のような紋様が描かれている。この数珠に関して、江戸中期の逸話集『常山紀談』(湯浅常山、巻十一)が次のようなエピソードを紹介している。
「秀康卿伏見にて妓女国が舞を見給ひし事」
越前の秀康卿伏見にて、国といふ妓女を召して舞はせられし時、襟にかけたる水晶の数珠見苦しきとて、物具の上にかけ給ふ珊瑚の数珠を賜はりけるが、しばし舞ひける時、頬に涙を流し給ふ。人人怪しみければ、秀康卿今天下に幾千万の女あれども、天下一の女と世に誉められ、名高きは此の女なり。吾れ天下第一の男と世にいはれず。あの女にさへ劣り果てたるかとおもへば泣かれけると仰せありけり。
徳川家康の次男で武将としての器量に恵まれながら「天下第一」となれなかった悲運の武将、結城秀康は、「天下一」の阿国の艶姿と自分の身の上を比べて嘆息している。阿国は幾人もの貴人の御前で舞ったようだが、その最高の舞台は慶長8年(1603)5月6日の事であった。『時慶卿記』に次の記述がある。
女院御所ヘ女御殿御振舞アリ、ヤヽコ跳也。雲州の女楽也。貴賤群衆也。
この女院とは新上東門院、後陽成天皇の生母である。こうして貴賤に認められて歌舞伎の歴史は始まった。阿国を歌舞伎役者が「劇祖」と崇める所以である。
於国塔の周囲には昭和前期に著名だった役者の名前が並んでいる。上の写真では、左から中村梅玉(三代目)、中村扇雀(初代、四代目坂田藤十郎や中村玉緒の父)、坂東壽三郎(三代目)、實川延若(二代目)の名を見ることができる。
歌舞伎を見たのは一度きり、国立劇場での中村橋之助(三代目)と中村扇雀(三代目)による「鳴神」であった。今も間近で見た飛び六方の迫力を忘れられない。これもすべて出雲阿国のおかげと思って於国塔を見上げれば、その偉大さに頭の下がる思いがする。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。