また、大河ドラマの話だが、呂宋助左衛門を主人公にした『黄金の日々』は欠かさず見ていた。今から考えると、よくそんなマイナーな人物が主人公になったのか不思議なくらいだが、時代が安土桃山で登場人物に不足はないので、毎週楽しみだった。助左衛門は今の松本幸四郎、当時は市川染五郎だった。根津甚八の石川五右衛門もニヒルでかっこよかった。釜煎りの刑というのがどんなものかとドキドキしながら見たものだ。
大阪府南河内郡太子町大字葉室に「五右衛門石」がある。
腰掛けるのに丁度よさそうだから「腰掛石」伝説だろうと当たりを付けて、太子町立竹内街道歴史資料館『科長の里のむかしばなし』所収「葉室の五右衛門石」を読んでみた。
この石はすごいんやで。ある時、盗みに失敗して命からがら逃げ帰った五右衛門さんが、ここまで来てホッとしていつものように石に腰を掛けたんやけど、しくじった腹立たしさから石を殴りつけ、喫うてた煙草のキセルを打ちつけたんや。ほんでれ五右衛門石には、ゲンコツとキセルの跡残ったんやで。おまけに、五右衛門石の近くの木につっきょる虫は、みんなキセルの雁首の形になっとんやで。
なるほど、さすがの五右衛門もよほど悔しい思いをしたとみえる。怨念が虫の形にまでなるとは。このあたりに多い古墳の横穴式石室を隠れ処として、たびたび京まで稼ぎに出掛けていたらしい。この五右衛門石も古墳の石室用材ということだ。
五右衛門の伝説地は各地にある。近いところでは、現在の河南町の一部にかつてあった石川村の出身だとも言われている。出生地と腰掛石の二つの伝説に関して、上記『科長の里のむかしばなし』は次のように推測している。
これらの伝承は、この場所が当時の河内国“石川”郡の山田村から同郡“石川”村に向かう道筋に当たることから、“石川”五右衛門と結びつけられて生み出されたのでしょうか。
そういうことであったか。義賊なれば語り伝えるだけの価値があるということだろう。五右衛門といえば次の辞世が有名だ。
石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ
けだし名言。400年を経た今に至るまで盗人がいなかった例しがない。そして、義賊も現れた例しがない。