「日本には謎の鳥がいる。正体はよく分からない。」から始まる秀逸なコピペがあった。中国から見ると「カモ」、日本国民は「サギ」だと思っているが、鳥自身は「ハト」だと主張しているというヤツである。昔でいえば落首のようなもので、権力者への皮肉が見事に表現されている。
その鳥は「ハト」だから、友愛外交を旗印に東アジア共同体という理想郷を創ろうとした。その鳥は「サギ」だから、普天間基地を最低でも県外にと言っておきながら、最後には沖縄県民にご負担をと言い放った。その鳥は「カモ」だから、今年1月中旬に中国を訪れ歴史問題でお詫びし尖閣諸島を係争地と認め、中国メディアに「日本は鳩山氏のような態度を取る必要がある」と絶賛された。
何かと話題が多い鳩山由紀夫第93代内閣総理大臣だが、父は鳩山威一郎第105代外務大臣、祖父は鳩山一郎第52,53,54代内閣総理大臣、曽祖父は鳩山和夫第6代衆議院議長という華麗なる一族である。さらに遡ると、鳩山家はもと美作勝山藩の藩士であった。
真庭市勝山の安養寺に「三浦氏墓所」がある。三浦氏は10代にわたって勝山藩主を務めた殿様である。勝山藩士の子として生まれた鳩山和夫は幼少期を勝山で過ごしたことがあるそうだ。
上の写真の立派な大名墓は、右が第5代藩主・三浦誠次(みうらのぶつぐ)のものである。文政13年(1830)にし襲封したが翌年死去する。画家として有名なようで『美術人名事典』(思文閣)にも掲載されている。戒名は「常楽院殿前志州刺吏実誉至真誠山大居士」、志州刺史とは志摩守の唐名である。
その左は誠次の子で第6代藩主の峻次(としつぐ)の墓である。父の急死により襲封したが、天保10年(1839)に19歳で嗣子のないまま亡くなった。戒名は「峻徳院殿前壱州刺史瞻誉高山赫道大居士」、壱州刺史とは壱岐守である。
第7代藩主には峻次の弟・義次(よしつぐ)、義次隠居の後に第8代藩主に丸岡藩有馬家からの養嗣子・朗次(あきつぐ)が継ぐが、安政7年(1860)に亡くなる。
こうした状況で第9代藩主となったのが義次の兄とも弟ともされる弘次(ひろつぐ)である。時代は幕末の激動期である。二度にわたる長州征伐には幕府方として長男・顕次(あきつぐ、たかつぐ)を派遣し、譜代としての務めを果たした。慶応4年(1868)に隠居して藩主を顕次に譲り、明治19年に亡くなった。墓は下の写真の一番手前のもので、「従五位三浦弘次之墓」と父や兄に比べてシンプルだ。これは神道を信仰するようになったためという。
最後の藩主は第10代藩主顕次である。津山藩、松山藩と結んでいた佐幕同盟を破棄して藩論を勤王に転じたのは彼である。また藩は1869年に真島藩と改称された。写真に彼の墓は見えないが、妻の墓が弘次の墓の向こうに写っている。「従四位子爵三浦顕次夫人土井氏之墓」とある。華族として三浦家は子爵に列せられた。
顕次の妻は、下総古河藩主で土井宗家第13代の土井利則(としのり)の娘である。初代利勝が大老を務めたという格式の高い家との縁組だが、三浦家と土井家には密接なつながりがあった。三浦家初代の正次(まさつぐ)の母は土井利勝の妹であり、正次も一時は土井姓を名乗っていたという。
さらに遡ると、正次は鎌倉幕府の有力御家人・三浦義村の子孫だという。系譜は次の通りだ。
三浦義村-家村-義行-行経-朝常-朝胤-正胤-重明-正明-重村-正村-正重-正次
どこまで信用できるのかは分からないが、三浦家としての公式見解はこういうことだ。前回紹介した先三浦氏とは、同祖異系で義村の祖父・義明が共通の先祖となる。
鳩山元総理のご先祖様は、なかなかの名族の系譜を引く大名に仕えていたのだ。そして現在はご自分が名族となっている。願わくは、アジア各地の大空を駆けめぐる鳥となって、友愛の理想郷を築いていただきたいものである。
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