広島県福山市の市章はコウモリの形をしている。黒いコウモリのシルエットはハロウィンを思い起こさせるが、もちろん関係がない。コウモリは漢字で「蝙蝠」と書くが、その「蝠」は縁起のいい「福」に通じるとされる。さらにコウモリのシルエットを「山」という感じに似せて、「福山」を表現しているのだ。
では、なぜ蝙蝠なのかといえば、福山城のある高台がかつて蝙蝠山と呼ばれていたからだ。コウモリ転じて福となしたのは、徳川家康の従兄弟で福山藩初代藩主の水野勝成である。
福山市丸の内一丁目の福山城公園、二の丸東側に「水野勝成之像」がある。
以前に勝成を祀る「聡敏神社」を取り上げた時に次のように書いておいた。
水野勝成は徳川譜代の有力武将として大坂の陣で活躍し、元和5年(1619)に福山十万石の領主となる。福山では、干拓、開墾、治水など領国経営に精進し、特に上水道の整備は城下町の形成に大きく寄与した。いま福山城にある水野勝成像が裃姿であることが、強き武将以上に良き領主として福山市民から追慕されていることを示唆している。
近年、水野勝成で盛り上がっている自治体は愛知県刈谷市である。平成22年に『刈谷偉人伝その2 初代刈谷藩主水野勝成物語~鬼日向と呼ばれたお殿さま~』というDVDを制作した。勝成は福山移封以前に大和郡山、その前に三河刈谷を領していたのである。
なんと刈谷市では、今年が刈谷城築城480年ということで、勝成公をモチーフとしてマスコットキャラクターまで作ってしまった。兜には市の花カキツバタをあしらった、かわいいキャラクターである。今月末まで愛称を募集しているようだ。かつなりクン、かっつん、おにひゅうがちゃん、何がいいだろうか。
いっぽう福山市でも、勝成は銅像となったり、漫画(『まんが物語「福山の歴史」放浪の大名・水野勝成』)になったりと、顕彰活動は早くから進んできた。福山城公園の先人の森には「水野勝成公寿碑」がある。慶安元年(1648)の建立で、勝成ゆかりの史跡として、かなり貴重である。
この碑は、もとからここにあったものではない。詳しいことは隣の「水野勝成公寿碑移転記念碑」に記されているので、そちらを読んでみよう。句読点を付けて書き写した。
寿碑は慶安元年(西紀一六四八年)十月京都紫野大徳寺境内の瑞源院に建立せられ、碑文は大徳寺江雪叟宗立の撰になる。
今この碑文を検するに、勝成公、姓は源、譜は鎮守府将軍多田満政に係る。父は忠重といひ、累世尾張水野の県に邑す。因って水野を氏となす。公、幼にして聡明俊敏、仁義の源を窺ひ、射御の道を倦まず。稀に見る勇将たり。十六歳三州高天神攻略の初陣より、甲斐の古国府、尾張の長久手蟹江の合戦に勇戦大功を樹て、東照宮の激賞するところとなる。時に侫者の父忠重に讒するを憤り、これを討ちて九州に亡命し、肥後の佐々成政、小西行長等に仕へ、勇戦武名を揚ぐ。慶長五年、父忠重害に遭ふ。公、東照宮の台命を奉じて父業を継ぎ、三州刈屋の城主となる。後、関ヶ原の役には勇躍大垣を屠り、大阪の役にも亦抜群の偉勲を樹て、その功により大和郡山に、更に元和五年備後福山に転封せられ、西国鎮衛の重任を負ふ。寛永元年瑞源院を創建し、亡父瑞源院殿の恩義に報す。蓋し寿碑は、公の武勲を永劫に顕彰し、無窮を祝福するに在り。
爾来幾星霜櫛風沐雨、瑞源院はいつしか廃寺となり、寿碑亦荒廃に帰す。荏苒これを放置せんか。福山城の築造を始め、市街の建設、耕地の干拓、社寺の修理等、民生の安定向上に貢献したる郷土開発の父勝成公の遺跡も、遂には再び見るべからざる憂ふべき状況に在り。
水野勝成公報徳会は痛くこれを遺憾とし、恩顧の地福山に移転し、公の遺徳を追慕すると共に、報本反始の念を昂揚し、且つ地方文化に光彩を添へんとす。
我が福山市としても、この挙を賛し、聊か力を添へ、題字は特に公の末裔水野勝邦氏の筆になり、今やこれが実現を見るに至れるは、吾人の最も欣快とする所なり。
昭和三十三年四月 福山市長 徳永豊 撰
櫛風沐雨(風雨にさらされ苦労する)、荏苒(何もしないままに過ぎ行く)、報本反始(恩恵に報いる)など、漢文の素養が必要だが、城下町を築いた勝成公の偉業を称え、恩に報いようとする気持ちがよく伝わってくる。
勝成が亡くなったのは慶安四年(1651)だから、この碑は生前の建立、つまり寿碑ということになる。生前から今に至るまで顕彰され続けている水野勝成公。福山市民が誇る「民生の安定向上に貢献したる郷土開発の父」であった。
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