物事に長所、短所はつきものだが、長所なり都合の良いところを組み合わせると、けっこう優れものになる。このところ急成長しているタブレットは、ノートPCとスマホのいいとこどりスペシャルだ。江戸時代中期に盛んだった儒学の一派に折衷学派がある。古学、朱子学、陽明学の良いところをまとめた考えだ。
高砂市今市一丁目の正覚寺に「白谷仁科先生墓」がある。仁科白谷(にしなはっこく、1791-1845)は折衷学派の流れを汲む儒者で、漢詩を能くした。
この墓は平成12年に再建されたもので、傷んでしまったかつての墓は、その隅に置かれている。
仁科白谷といっても知る人ぞ知るという存在だ。右側の墓誌に先生の略歴が刻まれているので読んでみよう。
「白谷仁科先生の墳墓」
仁科白谷は江戸時代の儒者漢詩人で寛政三年岡山邑久に生れる。名は幹、字は礼宗、通称は源蔵、幼名梅乎、五才にして父琴浦と江戸に下り亀田鵬斎を師と仰ぐ。その後牛窓に帰省、「嵐山風雅集、富士百律、西遊日録、三備詩選」等を編す。文化十一年五月家君没し虫明妙見山南麓の麻谷にて服喪三年、恭敬、長詩を師に呈し茲に白谷を以て号とす。また富岳に登り雲を凌ぎ山霊を宗とす。三十六才の時京に上り師を求めず「性恬淡閑雲野鶴」四方に漂遊す。天保の頃、老中水野侯の招請を固辞す。書は和漢の古を極め詩境将に仙となる。
後年西遊の途次此地に足を留め鈴木長左衛門邸裏二階の川に面せる得月楼にて日々放吟豪飲し興来れば筆を揮い倦み去れば枕を呼ぶの有様にてありしに突然卒中症にて昏倒し帰らぬ黄泉の客となる。実に弘化二年五月享年五十五才。近隣の村民相集まりて白谷先生の徳学を偲び遺骨を此臨江山正覚寺の一隅に葬り小さな墓標を建て表面に「白谷仁科先生墓」と刻せり。
師の亀田鵬斎は折衷学派の大家である。白谷自身も天保9年に水野忠邦から幕府の儒官にとの話があったが蹴ったようだ。学者というより、富士山を望んで吟じ登って吟ずるなど、漢詩人として著名である。ここでは富士は富士でも伯耆富士を詠んだ詩を紹介しよう。(猪口篤志『日本漢詩鑑賞事典』角川小辞典より訓読のみ引用)
雲州雑詩
大嶽(たいがく) 削り成す三万丈
絶巓(ぜってん)縹渺(ひょうびょう)たり 有無の中(うち)
雪氷(せっぴょう)を吹き散じ 来って雹(ひょう)と作(な)す
濤声(とうせい) 地を動かす 北溟(ほくめい)の風
大嶽とは、伯耆富士と呼ばれる鳥取県の大山(だいせん)である。写真は岡山県側の鬼女台(きめんだい)から写しているが、西側から見ると富士山に見立てることができる。見る方角によって姿を変える面白い山だ。
自然によって削りつくられた大山は三万丈もある。その頂上は霞んで、有るのか無いのか分からない。雪が吹き飛ばされて雹(ひょう)が降ってきた。日本海から吹く風は激しい波音と共に大地を揺るがしている。
スケールの大きさが魅力の名吟である。出雲方面から見て詠んだので、先生には富岳のように見えたはずだ。先生は、この詩のように小ぢんまりした枠には収まりきらない人物だった。出身地の自治体・邑久町が制作した『邑久町人物誌』には次のような人物評が記されている。
彼の生涯は深い知識と優れた詩文をもち、豪放らいらくな人であったが、気性がはげしかった。このことが、彼の幸せを摘んだようである。
出掛けるのが好きで四方を遍歴するものだから、弟子からは「四方先生」と呼ばれたという。酒を伴として吟行した先生、けっこう幸せな人生だったのではないでしょうか。
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