建造物内で受ける印象の強さは見通せる距離の二乗に比例する、という法則がある。というのは冗談だが、あってもよさそうな気がする。都会のビルに入ると、そのエントランスホールの大きさに驚くことがある。凄い所に来たぞと思わせ、相手を圧倒する効果を発揮する。
廿日市市宮島町に「千畳閣」がある。正確には厳島神社末社豊国神社本殿という。国の重要文化財である。
この巨大さで末社なのだから、本社の厳島神社の神威の広大無辺なることを思い知らされる。なぜこのような巨大建造物が建てられたのか、豊国神社の御祭神・豊太閤とどのような関係があるのか、厳島神社社務所が発行した『伊都岐島』で関連部分を読んでみよう。
豊臣秀吉が島津征伐の途次、毛利輝元の案内で参拝した時、この岡にあった大楠を見て経堂を建立することを思い立ち、部将安国寺恵瓊に命じてこれを宰領せしめたと大願寺文書にある。建築工事はこの年から着手したものと思われるが、その竣工を見ない間に文禄・慶長の役があったので、中止されたのであろう。
桃山期の豪壮な建物で、桁行正面十三間、背面十五間、梁間八間、一重、本瓦葺入母屋造り、楠材二重縁を廻らしてある。鬼瓦の銘文などによると、天正十七年(一五八九)には大体出来上がったのかも知れないが、正面の階段もなく天井も張ってない。須弥壇は立派であり、又四隅には欞子窓を備えた板壁はあるが、建具類はない。
秀吉が島津征伐に進発したのが天正15年(1587)3月1日であり、厳島見物にやって来たのは同月18日であった。安国寺恵瓊の監督により、かくも豪壮な御堂が出来上がった。「見事な采配であることよ」恵瓊の株はますます上昇する。
文禄元年(1592)には文禄の役が始まり、恵瓊も従軍して活躍している。そのためであろうか、天井がないなど未完成な状態のまま現在に至っている。明治初期の神仏分離により豊国神社となった。例祭日は9月18日で、西暦で秀吉の命日に相当する。
千畳閣を訪れた人々は、思い思いに歩いて回り、やがて各自のお気に入りの場所を見つけ、ゆったりと過ぎ行く時間を楽しんでいる。桃山文化とは、それほどに自由なものだったのかもしれない。
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