最近は口にしていないが、「はったい粉」は子どもの頃のおやつでよく食べていた。香ばしさと食欲をそそる色加減、そして、まったりとした食感。ミネラルと食物繊維たっぷり。よくできた食品である。実は何の粉が知らなかったので調べてみると、大麦を焙煎して粉にしたもので、小麦粉の数倍の栄養価という。今日は、はったい粉パワーが歴史を動かした話である。
小野市樫山町の樫山駅(神戸電鉄粟生線)の近くに「義経の腰掛石」がある。
ヒーローは颯爽と登場する。そしてヒーローは栄光を手にする。そしてヒーローは悲劇的である。だから源義経は日本史上の英雄なのである。
時は寿永三年(1184)正月、都を混乱させた源義仲を頼朝の命により義経らが滅ぼすなど、源氏の内訌が続いている間に、平氏はかつての本拠地福原まで戻り、京をうかがうまでに勢力を回復していた。
2月に入り、源氏は福原を総攻撃するべく、源範頼を大手、義経を搦手として進発させた。『平家物語』はこれを4日とする。義経はその日のうちに丹波を越えて播磨に進み、三草山で夜襲により平資盛の軍勢を蹴散らす。その後、6日早朝に義経は軍勢を二手に分け、本隊を土肥実平に預け一ノ谷の西方に向かわせ、自らは別働隊を率いて平家本陣を背後から突くこととする。そして7日、かの有名な「鵯越の逆落し」が決行されるのである。
義経軍が三草山の戦いを経て、福原周辺の平家の軍勢を山の手から攻めたことは間違いない。しかし、逆落し虚構説まであるくらいだから、詳細に分かることは少ない。三草山から福原あるいは一ノ谷へのルートも同時代の記録としては残されていない。
しかし、丹波から播磨にかけて点在する義経の足跡を伝える伝説をたどると、その行程は想像がつく。すわなち、三草から社、小野、三木、藍那、鵯越とのカーブを描くルートだ。本日紹介する樫山の伝説地はこのルート上に位置するのである。
同じく樫山町に「粉喰坂(こくいざか)」がある。
いわくありげな名前のこの坂には次のような伝説がある。現地にある説明板を読んでみよう。
源平合戦のとき、平家追悼の命を受けた源義経は、三草山より一ノ谷へ向かうためこの坂にさしかかった。行会った老女に道を問い、空腹のため食物を乞うた。老女は麦をいぶして作ったハッタイ粉を差し出した。義経らはその粉で腹を満たし、近くの涌き水で喉を潤し坂道を登った。
確かにこの坂を越えて進めば三木へと通じている。鵯越へのルート上である。説明板にある近くの涌き水も残っている。
坂の手前に「亀井が淵」がある。
これも説明板を読んでみよう。
この湧き水は、当地にやってきた義経の家臣の亀井六郎という弓の名手が山麓めがけて矢を放ったところ、不思議なことに岩間より湧き出したとされています。この涌き水で喉を潤した義経一行は一の谷へ出陣したと伝えられ、その後、この話は謡曲「清房」にもとり入れられています。また、当地では住吉神社の神事や大峰山詣での際にはこの湧き水で身を清めたとのことです。
亀井六郎とは、奥州衣川で義経と最期を共にした忠実な郎等である。謡曲「清房」についてはよく分からないが、平清房は清盛の子で一ノ谷の戦いで戦死した武将である。
6日早朝に義経が軍勢を二手に分けた場所を三木だとすると、樫山ではったい粉を口にしたのは5日となろうか。それまで強行軍で進んできた義経の軍勢はヘロヘロだったに違いない。二手に分かれて作戦行動を開始する前に、栄養をしっかり摂って体力を回復させたということだろう。
はったい粉を差し出した老女の後日談、力を取り戻した武蔵坊弁慶がやらかしてしまったエピソード、それらは次回に書くとしよう。
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