大河ドラマ『八重の桜』で長州は悪役に描かれたが、会津を主役にすれば当然そうなる。今やっている『半沢直樹』は、善悪の役割がはっきりしているから分かりやすくて人気があるのだ。今日の主役は長州、しかもその支藩格の岩国の人、悪役は会津でもなければ幕府でもない。庁内の因循姑息な重役であった。
岩国市横山二丁目に「三士誠忠之碑」がある。三士とは、東沢瀉(ひがしたくしゃ)、栗栖天山(くるすてんざん)、南部五竹(なんぶごちく)である。
慶応二年(1866)、四境戦争(第二次長州征伐)で岩国領主・吉川経幹(つねまさ)は芸州口で幕府軍を撃破した。しかし戦後、領内は佐幕保守派と尊攘改革派が対立し、改革派によって軍制が改められる。
三士は尊攘改革派である。東沢瀉と栗栖天山が組織した必死組は後に精義隊として戊辰戦争で活躍することとなる。必死組ができたばかりの頃、過激な隊員が集まり重役に乱暴狼藉を働いて要求を通そうとした。東と栗栖は責任者として罰せられ柱島(はしらじま)に流刑となる。
死を決意して絶食する東を見かねた栗栖は、脱島して仲間に東の救出を依頼し、自身は自刃して果てる。享年28歳。これを聞いた東は栗栖の遺志を尊重して生きて赦免を待つこととした。慶応2年12月のことである。
同じく尊攘派の南部は柱島から東を奪還することを計画するも露見して捕縛、切腹させられた。享年37歳。慶応3年8月のことである。
東は明治2年(1869)に赦され、後進の指導に当たって明治24年に60歳で亡くなった。碑が建てられたのは東の死からほどなくしてのことであった。碑文には次の一節がある。
則吾藩奏勤王之功成有恪公之宿志者
すなわち吾が藩において、勤王の功を奏し、有恪公(吉川経幹)の宿志を成す者なり。そう読み下すのがよいのか知らないが、岩国における勤王の志士である。
近くに桜の古木がある。立札によると、明治19年(1886)1月21日に植えられた記録が残っており、全国で二番目に古いソメイヨシノだそうだ。ちなみに一番古いのは明治15年に植えられた弘前公園のものという。
花は桜木、人は武士。若くして散っていった武士がいる。戊辰戦争に敗れた会津はたいへん多くの犠牲者を出したのだが、勝った長州にあっては内部抗争で役の上下を問わず犠牲者が出た。勤王ならば会津も同じ気持であった。岩国の若者が主張したのは、門閥打破であったのだろう。
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