今月10日に下村文部科学大臣が省議で「2020年を単に東京五輪の年とするのではなく、明治維新、終戦に続く第3の社会変革の年とし、日本全体を活性化していきたい。」と発言したそうだ。
ああ、またこの言説か。現代の閉塞感を打破しようと改革を進めようとする場合によく言われる。古くは昭和46年の中央教育審議会答申、いわゆる四六答申も、維新の学制発布、戦後の教育改革に次ぐ「第三の教育改革」とされた。
その後、1984年設置の臨時教育審議会の時にも、1998年の学習指導要領告示の際にも「第三の教育改革」という言葉が現れた。文部関係の人はこういう言い回しが好きなのかもしれない。しかし、考えてみるがよい。第一、第二の改革は血を代償にして一気に成し遂げられたものであった。平和裡に行われるスポーツの祭典を同列に論じるには無理があろう。
さて、第一の改革、明治維新の話である。確かに近代日本を創り上げた大変に意義ある社会変革である。いったい、いつから維新は始まったのか。「明治維新発祥の地」はどこなのか。
まず、五條市新町三丁目の史跡公園に「明治維新発祥地」の石碑がある。文久三年(1863)8月17日、天誅組が五條代官所を襲撃、代官を殺害して倒幕の旗を揚げた。
次に、下関市長府中浜町に「維新発祥之地」の石碑がある。元治元年12月16日(1865)、高杉晋作が幕府に恭順しようとする長州藩俗論党を打倒するため、長府の功山寺で蹶起した。
そして、今日紹介するのが、第三の発祥の地、「大田・絵堂の戦い」の史跡である。
美祢市美東町絵堂に「大田・絵堂戦役 萩政府軍本陣跡の門」がある。
元治元年(1864)、禁門の変を起こした責任を問うため、幕府は長州征討を行った。長州藩では俗論党が実権を掌握し、幕府に謝罪恭順の態度を示すとともに、正義党への弾圧を強めた。
これに危機感を抱いた高杉晋作が功山寺で蹶起したのは先に述べた。正義党諸隊には藩政府打倒の機運が高まり、元治二年(1965)正月6日、太田・絵堂の戦いが始まる。その場所がこの門である。説明板を読んでみよう。
幕末、長州藩の内訌戦「太田・絵堂戦役」の際、萩政府軍の本陣となった絵堂・旧柳井邸の門で、元は北方約二百m先の町筋にあった。(中略)この門には、本戦役の開戦となる慶応元年(一八六五年)一月六日未明、諸隊の斥候隊が政府軍陣営に夜襲をした際、打ち込んだ銃弾の貫通痕が残っている。
この門は俗論党の粟屋帯刀の本営にあったものだ。移設された門と同じ場所に「絵堂戦跡記念碑」がある。大正15年5月の建立で、書は毛利元昭公爵である。最後の藩主・元徳の長男である。防府市の毛利邸に住んだ人でもある。
戦いの続きである。正月10日に俗論党は正義党の手にあった絵堂を奪回し、さらに南へ攻め込んできた。
美祢市美東町大田に「大田絵堂戦跡記念碑」がある。絵堂の碑と同じものである。
戦いの舞台となったのはここである。説明板を読んでみよう。
大木津(おおこつ)・川上口の戦い
慶応元年(一八六五)正月十日、萩政府軍(俗論党)は力士隊を先頭に大木津に攻め入る。諸隊側は奇兵隊が守備していたが多勢に無勢、殿ヶ浴に地雷を仕掛けて川上口まで退却。地雷は不発に終わり、民家七軒を焼失して大激戦となる。銃声を聞いた本陣(大田・金麗社)の山県狂介(有朋)は、奇兵隊第二銃隊に幣振坂からの急襲を命じ、難局を打破した。そこへ、八幡隊・南園隊が救援にかけつけ政府軍は敗退した。この戦いは、保守と急進の天下分け目の戦いであった。
奇兵隊は大木津から川上口まで大田川沿いに退却、苦戦を強いられる。そこへ諸隊本陣の山県の命により側面から攻撃が行われ、援軍もあって形勢を逆転することができた。幣振坂は川向こうの斜面にある。天王山か関ヶ原かという大勝負だったわけだ。
美祢市美東町大田上新町に正義党諸隊の本陣があった「金麗社」がある。奇兵隊、南園隊、遊撃隊などの幟が、時代を動かした彼らの業績を訪う者に伝えている。
また、写真左端にかろうじて写っているのは「奇兵隊戦勝記念燈籠」である。「元治四年」の年号が刻まれているが、実はこの時、慶応三年。徳川慶喜には応じないという心意気を表すそうだ。
境内には重要な記念碑が二つある。一つは「殉難十七士之碑」である。太田・絵堂の戦いにおいて正義党諸隊は17名の死者を出した。彼らの命を代償として藩論を倒幕へと動かすことができたのである。しかし、俗論党政府軍にも死者は24名出ている。彼らの死も同列に扱わねばなるまい。無駄な死はあってはならないのだ。
もう一つの碑は「大田邨碑(おおたそんひ)」である。これは大田・絵堂の戦いの概要を記したものである。
碑文中には、この戦いの意義を明確に示した一節がある。
而して天の眷(かえ)りみる所、能く克捷(かち)を致すは、独り二州の幸いのみならず、異日大政維新の盛を観るを得たるも、亦未だ嘗つて此の役に基づかざるものあらざるなり。
明治維新は大田・絵堂の戦いから始まったという。とすれば、天下分け目となった大木津・川上口の戦いが、ピンポイントの起点ということになり、勝利の功績は山県狂介に与えられる。さすがは明治の元勲、山県有朋公爵。すべてはあなたのおかげだと分かりました。