ペリーの黒船は太平洋を渡ってきたものと誤解されやすい。これは日本とアメリカが太平洋を挟んで向かい合う地図を見慣れているからだろう。実際はアフリカ周りマラッカ海峡経由で我が国に来航している。ならば帰りくらいは意気揚々と太平洋を渡ったのか。それも違う。黒船は来た道を戻り、ペリー自身はエジプトからヨーロッパに渡り鉄道で移動し、最後に大西洋を渡ってアメリカに帰った。
遣日使節ペリーでさえ渡ったことがない太平洋を、日本の遣米使節は渡った。遥々37日間の船旅であった。今日はその使節の正使を務めた新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)の話である。
中野区上高田四丁目の願正寺に「新見豊前守正興の墓所」がある。墓碑には「正興院殿釈閑水遊翁大居士」という戒名が刻まれている。上部には「新見葦(一葉葦)」という家紋がレリーフされている。
万延元年遣米使節といえば、咸臨丸の勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎が有名だ。しかし、彼らは随員であり、正使新見正興は米国の旗艦ポーハタン号に乗船していた。
新見氏はもと備中の国人で当地の地名と同じく「にいみ」であったが、初代正勝が徳川家康に仕えてその命により「しんみ」と称するようになった。正勝は相州品濃村などに所領を得て、江戸時代を通じて新見氏が保持していた。当主は正勝-正盛-正道-正知-正員-正仲-正恒-正登-正路-正興-正典と続き、正勝と正路の墓が横浜市戸塚区品濃町の品濃谷宿公園の墓地にある。
正路は大坂西町奉行の在任時に安治川の浚渫工事を行った。その際の土砂を積み上げたのが天保山で、今は日本一低い山として知られている。
正興は正路の弟の次男で、正路の養子として嘉永元年(1848)に家督を継いだ。その後の活躍については中野区教育委員会の説明板に教えてもらおう。
新見豊前守は、遣米使節の重責をはたした人です。
安政六年(一八五九)外国奉行に抜てきされ、さきに締結された日米修好通商条約の批准書交換のため、特派使節になりました。
万延元年(一八六〇)アメリカ船ポーハタン号に乗り、咸臨丸とともに品川を出港、ワシントンでアメリカ大統領に会見して大任を無事にはたし、大西洋経由で帰国しましたが、国内の情勢が急変し攘夷論が盛んななかで、正興は外国での見聞を生かす機会もなく、元治元年(一八六四)職を免ぜられました。
明治二年、四十八歳で病没し、牛込原町(新宿区)に葬られましたが、その墓は大正の初め寺とともに現在地に移転しました。
大正七年、モーリス、アメリカ全権大使が、また昭和三十五年には、駐日大使ダグラス・マッカーサー二世が墓を訪れ花を捧げました。
確かに正興が外国での見聞をその後に活かしたとは言えない。その後の歴史を知る者から見れば、福沢諭吉こそ米国経験を活かした人物である。
しかし、ここには記されていないが、正興は文久二年(1862)に御側衆に出世し将軍家茂上洛の御供もしている。与えられた役目をその都度立派に務め上げるのが能吏であり、正興はそのような人であった。
正興ら遣米使節一行はニューヨークのブロードウェイを馬車で行進したが、その様子を米国の詩人ウォルト・ホイットマンは“A Broadway Pageant”という詩に書いている。その冒頭部分である。
Over the Western sea hither from Niphon come,
Courteous, the swart-cheek`d two-sworded envoys,
「西の海を越え日本から来た、礼儀正しく、頬が日焼けした二本差しの使節たち」
そう、その「礼儀正しい」という美徳を米国人に印象付けたことは最大の成果である。使節の代表者はその国の体現者だから、立居振舞には細心の注意を払う必要がある。正興はそれができる人であった。
キャロライン・ケネディ駐日大使(第29代)の着任(11月19日)が話題になっているが、これまでに二人の大使が正興の墓参に訪れていることは注目される。第6代のローランド・モリスと第16代のダグラス・マッカーサー2世(あのマッカーサーの甥)である。米国人の記憶に残る確かな仕事をした新見正興は、近代外交の先駆者としてもっと顕彰されてもよいだろう。
さて、正興の娘に奥津りょうという人がいる。正興の妻の一人に旗本大久保甚右衛門家の駿河守忠行の娘で、旗本松平内蔵丞家の伊予守信武(ペリー来航時の浦賀奉行)の養女となった人がいる。この人の三女が奥津りょうである。
柳橋(台東区にあった花街)の売れっ子芸妓「おりょう」こと奥津りょうが柳原前光との間にもうけた子が、九条武子、江木欣々と並ぶ大正三美人の一人、柳原白蓮であった。つまり白蓮の祖父が新見正興である。
咸臨丸とともに太平洋を横断した新見正興。咸臨丸は帰路も太平洋を渡ったが、正興はアフリカ周りで帰国した。大西洋上のカーボベルデにも立ち寄っている。世界一周をしたわけだ。正式な使節として世界初の世界一周を成し遂げたのがマゼラン一行ならば、日本初の世界一周の名誉は新見正興一行に授けられるのである。
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