オリンピックは競技そのもののみならず、開会式や閉会式のセレモニーも見どころの一つである。今回のソチ五輪では、開会式で五輪が開かずに四輪になってしまうハプニングがあった。これを閉会式では、これを逆手にとって、最後の一つをあえて開かず、期待を高めてから開くという演出を行った。
ベルリン五輪開会式は、ある意味ナチス・ドイツの象徴であり、ロス五輪開会式も、商業国家米国を可視化していた。セレモニーが単に儀式にとどまらず、国家や時代のシンボルとなっているのである。
石川河川公園の「玉手橋であいの岸辺」ゾーン、柏原市石川町に「石川流域の歴史と文化」についての説明プレートがある。
このゾーンの見所は、まず「玉手橋」である。橋長151mの鉄製吊橋で、昭和3年に玉手山遊園地へのアクセスとして架橋された。主塔頭部のバトルメントという装飾が子ども向けのメルヘン調を醸し出している。現在は国指定の登録有形文化財である。
訪れたのは昨年の5月3日、河川敷が賑やかだった。見れば「道明寺合戦まつり」大坂の陣四百年祭プレイベントであった。道明寺合戦は慶長二十年(1615)5月6日、夏の陣における戦いの一つである。確かに400周年に向かって着実に時は流れている。
かつては豊臣方と徳川方の激戦地だった場所も、今はタコの形をしたタコが舞う平和な河川公園である。
今日、私が伝えたいのは、玉手橋でも道明寺合戦でもない。大切なのは、紹介した写真のように、この場が平和な心地に浸れる特別な空間であることだ。
特別? この辺りは古い神社や古墳の点在する歴史豊かな地域である。石川も伯太川あるいは博多川として史書に登場する。この地に我が国の最高権力者を迎え、新時代の始まりを告げるイベントが開かれたのである。『続日本紀』神護景雲四年(宝亀元年)三月条のことだ。説明プレートの文章を読んでみよう。
清流と丘陵に恵まれたこの景勝の地は、奈良朝の頃大変な賑わいを見る。
宝亀元年(七七〇年)、三月三日、由義宮(八尾市)に行幸の称徳女帝(孝謙天皇)が車駕を連らねて伯太川(博多川)に臨幸し、宴遊を催した。これには百官の文人及び大学生らが供奉し夫々曲水の詩を奏し奉った。いわゆる曲水の宴である。
また、三月二十八日、近在の豪族葛井、船、津、文、武生、蔵の六氏族の男女二百三十人が歌垣を奉催した。青摺の衣に紅色の長紐を垂れた色彩豊かな服装の男女が相並んで、分かれて徐かに進みながら歌った。『乙女らに男立ち添い踏みならす 西の京は万世の宮』と歌い由義宮(西ノ京)を言祝いだ。
また、『渕も瀬も清くさやけし博多川、千歳をまちて澄める川かも』と歌い、川の流れと安らかな時世を賞め賛えた。
称徳天皇は法王道鏡の出身地・弓削に由義宮を造営し、これを西京と定めた。そして、上記のとおり美しい服装の男女の演舞により、都の永遠が祈念された。それは、称徳・道鏡の二頭政治の頂点を示す一大ページェントであった。
永遠は実にあっという間だった。この年の8月に称徳天皇は崩御、直後に道鏡は失脚する。由義宮も忘れ去られてゆくのである。栄耀栄華ほど儚いものはない。しかし、平和の祭典は今に至るまで繰り返し催され、そこに集う人々に幸せを与えているのだ。