大河ドラマは昨年が新島八重、今年が黒田官兵衛、来年は吉田松陰の妹(杉文、楫取美和子)、再来年は真田幸村と、幕末と安土桃山の王道を交互に突っ走っている。
あえて言うが、二つの王道は著名人物が多く登場し、歴史で記憶した事件が再現されるので、視聴者ウケは当然いいのだ。
だからこそ、一昨年の『平清盛』は意欲的で実験的な優れた作品であった、と再評価したい。画面が汚いとの批判があったが、遠い中世を描く演出として効果的だったように私には思える。久しぶりに清盛を語るとしよう。
神戸市兵庫区切戸町に「清盛塚石造十三重塔」がある。兵庫県指定重要文化財(建造物)である。
十三重石塔については、以前に宇治市の「浮島十三重石塔」、東大寺の「御髪塔」、笠置寺の「笠置寺十三重塔」を紹介した。いずれも鎌倉から南北朝の時代にかけての建立のようだ。やはり、これもそうなのだろうか。説明板を読んでみよう。
この石塔は古くから清盛塚と呼ばれ、北条貞時の建立とも伝えられています。当初は現在地より南西11mにあり、平清盛の墳墓とも言われていましたが、大正時代の道路拡張に伴う移設の際の調査で、墳墓でないことが確認され、現在地に移設されました。
石塔は、高さが8.5メートル、初層は一辺145cm、最上層は一辺88cmを測り、基礎部台石東面の両脇に「弘安九」「二月日」の銘があり、弘安九年(1286年)に造立されたことがわかります。
石塔の隣には、神戸出身の彫刻家である柳原義達の作になる平清盛像が建てられています。今なお清盛塚は、地域の人々によって敬われ、大切に守られています。
平成23年12月
神戸市教育委員会 岡方協議会
弘安といえば鎌倉時代、弘安の役だとか霜月騒動だとか、内憂外患に悩まされていた時代である。少年にして執権の座に就いた北条貞時が、平清盛のように強権を発揮できることを願って塚を築いたのだろうか。下は年紀銘の部分の写真である。写真右には相輪部だろうか、古い石材が置いてある。
平清盛の墳墓ではないということだが、名称が「清盛塚」で、隣には清盛像が立っている。台座には次のような趣旨が神戸市長によって示されている。
神戸開港百年祭を記念して開港の祖 平清盛の功績を顕彰するためここにその像を建立する
平清盛像で最も有名なのは、六波羅蜜寺の僧形坐像であろう。武士として初めて政権を握ったといわれるが、お坊さんじゃん、とイメージを混乱させる原因となっている。この立像も僧形で俗界から距離を置いた姿のようだが、実際には権力への執着は強かった。武家政権のトップの武士がたまたま僧形だったにすぎない。
柳原義達は平成8年に文化功労者に選ばれた著名な彫刻家である。平清盛像は昭和43年(1968)の作品である。神戸が開港したのは1868年だから、その百周年を祝うために清盛は姿を現したのだ。
平家は清盛を総帥として綺羅星の如く有能な武将から成る武家である。一族の団結力も源氏の比ではなかった。そんな平家の活躍と悲劇は『平家物語』が余すことなく描いているのだが、問題は『平家物語』に現代人がどれほど親しんでいるかである。
人は知らないことを知ろうとしないのである。知っているから見たくなるのである。人の心を動かすには、既存の知識を刺激するのがよいのだ。
それはそうだろうが、やはり源平時代は説話の原点、伝説揺籃の時代である。この時代を素材にした史跡も多い。視聴率も気になるだろうが、大河ドラマも時には中世の世界へ私たちを誘ってもらいたいものである。
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