時宗、一遍といえば「踊念仏」、どんな踊りなのか気になっていたところ、東京に滞在していた10年前に総本山遊行寺で「踊念仏」を観る機会を得た。既にレポートしているのでご覧いただきたい。
昨年8月10日、松山市道後湯月町の宝厳(ほうごん)寺が全焼し、国重文の木造一遍上人立像も失われてしまった。諸行無常、形あるものに永遠不滅はない。しかし、この寺は「一遍上人の誕生地」として県史跡に指定されている。生誕地は今後も語り伝えられていくであろう。
松山に生を享け、北は北上、南は鹿児島まで諸国を行脚し南無阿弥陀仏の易行を布教した一遍上人、その終焉の地を今日はレポートすることとしよう。
神戸市兵庫区松原通一丁目の西月山真光寺に「一遍上人廟所」がある。「一遍廟所」として県指定記念物(史跡)となっている。写真中央の「石造五輪塔」は県指定重要文化財(建造物)である。
一遍上人最後の巡錫をたどることにしよう。
正応二年(1289)、伊予を発って讃岐国の善通寺と曼荼羅寺に参詣する。
6月1日、阿波国の大鳥里河辺(現在の吉野川市鴨島町敷地の河辺(こうべ)寺跡)で発病する。
7月初め、淡路国の福良泊(南あわじ市)に移り、志筑神社(淡路市志筑)に参詣する。
7月18日、明石浦に渡り、迎えの船で兵庫に着き、観音堂(真光寺の前身)に入る。
8月23日辰の刻の初め(午前7時)、晨朝(じんちょう)の礼賛(らいさん)をつとめているときに、禅定(ぜんじょう)に入るように往生する。観音堂前の松の木の下で荼毘(だび)に付される。
こうして上人の長い旅は終わった。上人の赴くところ、仏法との縁が生じた。この結縁で世の人がどれほど救われたことだろう。上人の旅は終わっても、上人の足跡を求めて人々が旅をしている。私も遊行寺へ、真光寺へと参詣した。真光寺の「一遍上人廟所」の説明板を読んでみよう。
時宗開祖一遍上人(一二三九-一二八九)は鎌倉時代の終り頃、伊予守護職河野家の出身で幼にして出家、法然-証空-性達-一遍と浄土宗西山流を学ばれ、のち予州窪寺の修行、紀州熊野本宮の参籠(さんろう)に依って絶対他力の念仏の深意を領解(りょうげ)し、衆生救済のため人々に念仏を勧(すゝ)め「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」のお札(ふだ)をくばり乍ら時衆を引きへ、日本全国を十六年間にわったって行脚(あんぎゃ)された遊行聖(ゆぎょうひじり)で御座います。
目録に入る数廿五万人余その他数知れず人々に念仏結縁し、最後にこの地(ところ)和田の御崎島観音堂に於て正応二年八月廿三日御年(おんとし)五十一歳で安らかに入寂(にゅうじゃく)なさいました。「一代(いちだい)の聖教みなつきて南無阿弥陀仏になりはてぬ」とて所持の経典を焼きすてられ、又「我がなきがらは野に捨てけだものなどに施(ほど)こせよ」のお言葉もありましたが、多勢の信者の人達によって荼毘(だび)にふされ、手厚(てあつ)く供養されましたのが、現在の五輪塔で御座います。尚元禄年間に現在の廟所に改造されて居ります。
(昭和四十六年に兵庫県より史跡に指定)
宗祖御詠歌
旅ごろも 木の根かやの根 いづくにか
身の捨てられぬ ところあるべき
観音堂でのこと。9日から7日間紫雲がたった。弟子たちは阿弥陀如来の来迎、つまりお迎えが来たと理解したが、一遍は「そんなこと、あるわけない」と取り合わなかった。
「一代の聖教(しょうぎょう)みなつきて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」 私の教えは、つまり「南無阿弥陀仏」なのだと言い残した。形あるものよりも、教えを尊んだ。
真光寺は昭和20年の神戸空襲で全伽藍を失う。平成7年の阪神・淡路大震災では、一遍上人の石造五輪塔が倒壊する。この時、内部に上人の遺骨、遺灰が納められていることが判明したという。
上人生誕の地といい終焉の地といい、何かと災難に遭遇することが多い。形あれば失われる。しかし、「身の捨てられぬ ところあるべき」と言う上人であれば、動じてなんぞいないだろう。人間(じんかん)到る処青山あり。我執から離れた高潔な人生を実践した真の仏教者であった。
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