流人にも興味があって、佐渡島や八丈島に行ったことがある。観光客として訪れているので、飲み食いしての物見遊山だったが、さすがに行くまでに時間がかかり、遥々来ぬる旅をしぞ思ったものだ。社会との隔絶は流刑執行のねらいであり、交通も通信も閉ざされた当時の流人生活は随分厳しかったろうと想像できる。
だが、讃岐、今の香川県も流刑地になっていた、と知って少々驚いた。どうも瀬戸大橋だのうどんだのと、開けて楽しいイメージが強い。
今日紹介する讃岐への流人は高齢であり、当時の舟での長旅は骨身にこたえたに違いない。ところが、この流人は、ピンチをチャンスに変えた有徳の高僧であった。
香川県綾歌郡宇多津町に「法然上人御旧蹟杖掘の井戸」がある。
法然の法難に関しては、これまでに三度紹介している。一つめは神崎の遊女を成仏させた話、二つめは室津の遊女を教化した話、三つめは滝宮の念仏踊の指導をした話である。うち遊女については、讃岐までの道中での伝説、滝宮は讃岐での伝説である。
室津では、土地の人々が飲み水に困っていると聞いて、海辺の貝で井戸を掘ったという「貝堀の井戸」も紹介している。讃岐でも井戸を掘ってくださったようだが、道具は杖であった。石に刻まれた縁起を読んでみよう。
杖掘の井戸御縁起
承元元年(一二〇七年)今より七百八十三年前、浄土宗の元祖法然上人御年七十五才の御時、南都・北嶺の僧徒達の訴状に依り念仏停止の御法難に値い給い、追に当国塩飽本島に配流の身となりしが、源空もし流刑に処せられたまはずば我亦配所に赴かんや、もし我配所に赴かずんば何によってか邊鄙の羣類を化せんと御高齢をも、おいといなく各所に佛法弘通の御足労。数多の奇瑞を顕され折しも此の山峽へ御巡錫の砌、大旱魃に見舞れ土地の人人大いに嘆かれけるを上人非常に御憐み給い、御自ら杖を持って岩間に挿し給へば不思議なるかな清水湧き出し旱天続くも、涸れることなし、後の郷人高僧源空上人の御遺徳を偲び杖掘りの井戸と稱して崇敬の念、今に絶へざる也。
「会者定離ありとはかねて聞つれど きなう今日とは思はざりしを」
「別路のほどは遥かに隔とも 心はおなじ花の臺に」
釋覚念
平成二年五月 宇多津奉賛会
法然教団が易行を唱えて信者を拡大すると、既得権益が脅かされると感じた南都北嶺の僧徒は、朝廷に働きかけ、法然らを流罪とした。法然の配流地は土佐だったが、九条兼実の取り計らいにより、讃岐に変更された。
親鸞は連座により越後に流罪となる。この時の親鸞の言葉が、碑文中の「源空もし流刑に処せられたまはずば我亦配所に赴かんや、もし我配所に赴かずんば何によってか邊鄙の羣類を化せん」である。お師匠様が流刑にされたからこそ、私にも地方布教のチャンスが巡ってきたのです。そう言っている。
碑文最後の歌二首は、前が親鸞、後が法然が詠んだものとされている。「お師匠様、別れは定めとはいえ、こんなに突然にやってくるとは」「親鸞よ、私たちは遠く離れてはいるが、心は同じだよ」
そう、法然もまた、讃岐への流刑を布教のチャンスとしている。布教は教えを垂れるだけでは進まない。まず、人々を惹きつけるカリスマ性がないと、信者は得られない。さらには花より団子、民衆には利益誘導が効果的だ。
干害に悩むことの多い讃岐の人々のために、井戸を掘削した。しかも、作業は業者に委託したのではなく、自分の杖を岩間に挿し込むだけという簡易工法である。これを奇跡と言わずして何であろうか。
人々は分かりやすさ、行いやすさを昔も今も追い求めている。やはり、易行を普及させることこそが偉業なのである。
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