夏は滝だ。滝からはマイナスイオンが発生している。だから、爽快な気分になれるのだ。それが、疑似科学であろうと構わない。うだるような暑さの中で出会うミストで息を吹き返すことができるのだ。心地よさに理屈は要らない。
うきは市浮羽町妹川(うきはまちいもがわ)に「調音の滝」がある。
公園の噴水を見ても涼がとれるが、やはり滝にはかなわない。自然には同じものが二つとない個性がある。滝の姿もそうだ。この滝を見るだけで遥々来ぬる旅をしぞ思うことができるのだが、説明板を読むと、さらに滝の魅力を味わうことができる。
耳納連山の主峰鷹取山に源を発し、下流は巨瀬川となる。滝の高さ、二十七メートル、幅九メートル。
老樹うっそうとした中涼気漂い、水は崖上より「イロハ」という文字を描くように落下し、別名「いろは滝」とも言われている。
天保年間、久留米藩主有馬頼永公の奥方、晴雲院が領内巡遊の折立ち寄られ、水が流音余韻を残して、天然のメロディーを奏でるように聞こえることから「音の調べ」すなわち「調音の滝」と命名されたとされている。
「イロハ」はこんな感じでどうだろうか。
ここは林野庁選定「水源の森百選」(1995年)の一つ「滝のある水源の森」である。スギを主体とした手入れの行き届いた森で、清らかな水を育んでいる。
久留米藩第10代の有馬頼永(よりとう)公は、藩政改革を断行した英邁な君主であった。正室の晴雲院、晴姫(晴子)は、薩摩藩第9代の島津斉宣(なりのぶ)の娘で、天保8年(1837)に頼永公のもとへ18歳でお輿入れになった。
頼永公は天保15年(1844)に家督を継いで藩主となるが、藩政改革の途半ばにして弘化3年(1846)に病没してしまう。したがって、晴雲院晴子が領内を巡遊し、流れの奏でる調べが美しい滝に「調音の滝」と命名した、というエピソードは天保年間後半のことだろう。
晴雲院は頼永公の死後も長命を得て、明治36年(1903)に84歳で亡くなった。和歌と琴を得意とし筝曲を自らも作った。音感の優れた晴雲院がご覧になったから、「調音の滝」という風雅な名称になったのだ。このエピソードがなければ、単なる「いろは滝」だったに違いない。
調音の滝の魅力は、清涼な自然と由緒ある歴史に止まらない。
滝の水は流水プールになるのだ。これは子どもたちは大喜びだ。また、滝近くの茶屋では九州名物回転式そうめん流しをやっている。私たちも食べようとしたが、1時間半待ちのため諦めた。晴雲院もこの変わりようにはビックリだろう。今年は7月6日(日)が滝開きだそうで有馬の水天宮。
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