「内助の功」というけれど、妻の支えなくして活躍のできる旦那がいるだろうか。おねあってこその秀吉であり、千代あっての一豊であり、てるあっての官兵衛である。おそらく家では、さっぱり頭が上がらなかったのではないだろうか。
太宰府市宰府四丁目の太宰府天満宮境内に「楓社」がある。
菅原道真公を御祭神とする天満宮に比べて、この社はずいぶん小さいが、道真公を道真公たらしめたのは、この社の御祭神だったかもしれない。まずは立札を読んでみよう。
楓社
御祭神 菅公北の方 宣来子命(のぶきこのみこと)
道真公の奥方で詩作の師であった島田忠臣公の娘、宣来子命を祀る摂社である。
創建は不詳なるも、室町期の境内古図には、既に記されている。古来より夫婦円満・安産・子宝の守護神として信仰されている。
ここには道真公の奥様が祀られているのだ。お名前は宣来子とのことだが、まったく存じ上げない。調べてみることとしよう。
宣来子の父、島田忠臣(しまだのただおみ)は紀長谷雄(きのはせお=文章博士、大学頭)をして「当代之詩匠」(『本朝文粋』)と言わしめた漢詩人である。菅原是善(これよし)に師事し、その才能から是善に子道真の指導を任され、やがて道真を娘婿とするのである。大宰少弐として大宰府に赴任したこともある有能な官吏でもあった。
宣来子は嘉祥三年(850)に生まれ、貞観九年(867)に道真と結婚し、高視や衍子(えんし=宇多天皇の女御)を産んだ。衍子の入内は寛平八年(896)である。史料にほとんど出てこない宣来子だが、『北野天神御伝』(昌泰二年、899)に次の記事がある。
三月、授橋室島田宣来子従五位下、右小弁藤原如道為勅使、就於東五条第給位記。干時大臣長女、寛平太上天皇女御、賀氏母五十之算、太上天皇幸干其第、故有此授焉。
宣来子50歳のお祝いに、娘婿である宇多上皇が道真邸を訪れ、宣来子に従五位下を授けた、というのだ。同じ昌泰二年二月には、道真が右大臣を拝命している。おそらく、この時が菅家の絶頂期だったのだろう。
道真公の大宰府左遷は昌泰四年(901)一月のことであった。宣来子は夫と離れ京に残り、二度と会うことはなかった。それでも神となってこうして大宰府で再会を果たすことができた。まさに夫婦円満の守護神である。
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