本能寺の変から中国大返しを経て山崎の戦いに至る過程は、日本史上もっとも人気のあるハイライトシーンである。3日の大河「軍師官兵衛」は関西地区で20%超えを達成したという。
このドラマティックな展開の仕掛人は明智光秀である。真面目だが悲運なこの武将を春風亭小朝が好演した。洞ヶ(ほらが)峠で筒井順慶に待ちぼうけを食わされ、秀吉軍の中国大返しに驚き、衆寡敵せず、逃亡中にあっけなく命を落としてしまった。光秀が引き立て役に徹してくれたおかげで、秀吉はヒーローとなった。
今日は秀吉の天下人への大きな一歩、中国大返し、その異聞である。
岡山市東区西大寺南二丁目の雄神川神社の境内に「豊国(とよくに)橋」の橋柱がある。雄神川はすぐ近くの大河、吉井川の古名である。
豊国といえば豊臣秀吉を祀る豊国(とよくに)神社、そして祭神の豊国(ほうこく)大明神である。とすれば、西大寺の豊国橋も豊臣秀吉ゆかりに相違ない。神社の説明板から関連部分を抜粋しよう。
境内の豊国橋の橋柱の由来
天正十年豊臣秀吉が高松城水攻の後、急いで京都に帰る途中、その中のある隊が西大寺の西川に架かっている豊国橋を渡り、現在の雄神川神社の南から秀吉は吉井川の対岸の中島と言う所まで渡った、と伝えられている。
豊国橋はご覧のとおり移設されているが、もとあった場所はここである。
ここを中国大返しさなかの秀吉軍の「ある隊」が渡ったのだという。本隊ではなさそうだ。向きは写真でいえば向こうから手前となろう。
よく分からないのが次の記述である。
「現在の雄神川神社の南から秀吉は吉井川の対岸の中島と言う所まで渡った」
秀吉が渡ったとなれば本隊が通過したというのか。
吉井川対岸の「中島」に渡ったという。だが、『角川日本地名大辞典33岡山県』で検索しても該当しそうな中島は見つからない。
秀吉の中国大返し、そのルートはどこなのか。渡邊大門『黒田官兵衛 作られた軍師像』(講談社現代新書)によると、次のとおりである。
①六月四日、備中高松城から野殿(のどの)(岡山市北区)へ到着(「梅林寺文書」)。
②六月五日、沼城(岡山市東区)へ到着(「梅林寺文書」)。
③六月六日、姫路城へ到着(「松井家譜」所収文書)。
④六月九日、姫路城を出発。
分かりやすいところから説明すると、中国大返し当時(天正10年、1582年)の姫路城は羽柴秀吉の居城、沼城は秀吉に味方する宇喜多氏配下の城、野殿は宇喜多秀家の後見人忠家の居城である富山城の根小屋(野殿城)である。地元の宇喜多氏は中国大返しを強力に支えたのである。秀家の出世の一因はこんなところにもあるのだろう。
こうしてみると、豊国橋や雄神川神社のある西大寺はルートから外れているように思える。ところが中国大返しは、そのスピードの速さから海路を利用したのではないか、という推測もある。
当時、野殿は笹ヶ瀬川から海に出ることができ、西大寺に寄ることは可能だ。よく調べると、野殿城の近くには「中島」という中州があった。秀吉軍が中島から西大寺にやってきたというなら筋が通る。
それとも、かつて吉井川に「中島」という中州があって、秀吉がそこに渡ったのだろうか。もしそうなら、その場所は沼城の東方、備前福岡のあたりだろう。
推測ばかりで裏付けがない。それでも西大寺に伝わる中国大返し伝説は、大返しが陸海二路を駆使した大規模な行軍であったことを物語るのではないだろうか。
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